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  • #24:人は一人では生きられない。支え、支えられて生まれる「縁」を大切にして、共に成長しよう。

情熱主義

#24

人は一人では生きられない。支え、支えられて生まれる「縁」を大切にして、共に成長しよう。 情報学部 総合情報学科 スポーツ情報コース 齊藤 慎太郎 人は一人では生きられない。支え、支えられて生まれる「縁」を大切にして、共に成長しよう。 情報学部 総合情報学科 スポーツ情報コース 齊藤 慎太郎

中学生の頃、たまたま出場した陸上競技の大会で齊藤慎太郎先生は、見知らぬ人から声を掛けられた。
「君、ちょっとハンドボールをやってみないか」
体が大きく肩が強かった齊藤先生は、どうやら、県内のハンドボール関係者の間で、うわさになっていたようだ。
とはいうものの、当時先生の出身地である秋田県内でハンドボール部のある高校は7校しかなく、齊藤先生自身、ハンドボールという競技すら知らなかった。
「野球で甲子園に行くことは無理でも、ハンドボールならすぐ、全国大会に出ることができるよ」と、甘い言葉で誘われた。
「ちょっとやってみるか」
齊藤先生のハンドボール人生は、そんな軽い気持ちで始まった。

「日の丸」を胸に、世界と戦う日。

進学したのは小さな高校だったが、ハンドボール全国大会の常連校とあって、練習は想像を超えた厳しさだった。
しかし、スポーツ万能の齊藤先生には、もともと素質もあったのだろう。1年生のときからレギュラーとして全国大会に出場するようになった。3年生のときには、全日本ジュニアの候補になり、さらに香港の国際大会への出場を果たした。そこには「日の丸」を胸につけて、コートに立つ自分がいた。周りは外国人だ。話す言葉も違う。戦っている相手は、世界だ。

齊藤先生

その時点では国際大会に出場する選手としては、さほど目立つ存在ではなかった。しかし、そのコートで先生の胸に、湧き上がるものがあった。それは「もっと上をめざしたい」、という強い思いだった。

国際大会に出場したことで大学からも声がかかり、ハンドボールの強豪校へ進学。ハンドボール漬けの毎日が始まった。入部したメンバーの半分以上が脱落するほどの、過酷な練習が続いたが、先生はつらいと思ったことは一度もなかった。
先生の胸の中には、いつかまた、あの世界の舞台でコートに立ちたい、そんな強い気持ちがあったからかもしれない。

4年生の時のチームは最強と言われた。当然のようにリーグ優勝を果たし、周りからは「日本一に1番近いチーム」と言われた。先生自身も全日本インカレでの勝利を、ほぼ確信していた。
しかし、その過信が心に緩みを生んだ。今でも思い出すのは、勝利した試合ではなく、敗北した決勝戦だ。悔しさ、情けなさとともに、試合の一部始終が脳裏によみがえってくる。指導者になった今、先生は学生に言う。
「絶対は、絶対にない」。だから、諦めるな、気を緩めるな、と。

ハンドボールを通じてつながった、さまざまな縁。

齊藤先生が大学4年生の時、ハンドボール部の監督として就任してきたのは、ロサンゼルスオリンピック日本代表のメンバーであり、若く有名な方だった。印象的だったのは、その指導方針。「ハンドボールはとにかく走ること」「前に前に持ち込め、そのために走れ」と監督は言い続けた。他のこともおっしゃったかもしれないが、今も思い出すのは、その「走れ」という声だ。後に日本代表監督も務め、名伯楽となった齊藤先生の恩師の一人である。

大学卒業後は、山形県から請われて高校の教員になった。教員として勤務する一方で、4年後に地元で開催されるべにばな国体のハンドボールチームへ選手として加入し、強化することが条件だった。4年後、齊藤先生擁する山形県チームは見事総合優勝を収めた。以後、山形県との縁は今もつながっている。

齊藤先生

国体での成功後、本格的に指導者としての道を歩むため、大学院へ進学し、学び直すことを決心した。大学院の指導教員は、スポーツ動作学、バイオメカニクスの第一人者であった。初めての講義で「英語の辞書を買ってこい」と言われた。英語の論文を渡されて、これを全て訳せという。さらに「大学院にいる間はハンドボールとは一切縁を切れ」と。とにかくハンドボールは「やるな」「関わるな」の一点張り。そこから大学院での2年間、先生はボールにすら触れていない。ひたすら研究に打ち込んだ。「大学院での研究が終わってから、研究とハンドボールの現場をリンクさせること」という教えだった。いったん現場を離れることは、ものごとを客観的に見ることにつながる。振り返ればこれまでの人生はハンドボールが中心だった。ひたすらに勉強したこの時の経験が、自分の幅を広げてくれた。恩師のおかげだと先生は振り返る。この時の研究を通じて身に付けた、科学的に現象を分析し理解する力は、今も先生の中に根付いている。

修士論文の提出間際、腰にヘルニアを患ってしまった。重症で病院のベッドから起き上がれないほどだった。この時も助手の先生や多くの友人たちが助けてくれた。無事修士課程を終えることができたのは、支えてくれた方々のおかげだと先生は振り返る。
大学院を修了した後は、大学に残って女子チームのコーチをしながら、非常勤講師を勤めていた。そんな時、大同大学との縁をつないでくれたのは、大学の同窓生であり、今の大同大学男子ハンドボール部監督の佐藤壮一郎先生である。

生きていく力は、すべてスポーツが教えてくれる。

今、齊藤先生は、大学教員としてスポーツ情報コースの教壇に立ち、同時に女子ハンドボール部の指導に当たっている。
スポーツを通じて学生に身に付けてほしいと願うのは、「人間力」だ。生きていくために大切な力は、すべてスポーツが教えてくれる、と先生は信じている。

また、女子ハンドボール部の指導では、「強さと優しさを持ち、気配りを忘れるな」と教えている。さらに女性として母親になった時は、「お母さん、かっこいい!」と言われるようになってほしいと期待を込める。つらい時にも「これでいいや」と諦めるのではなく、「負けてたまるか」ともう一度立ち上がる強さ・気概を持つこと、チームとして共に歩むために仲間への優しさを持つこと、自分のことを後回しにして周囲の人たちに気配りすることは、今後の社会生活の中で、時代を生き抜く「芯」になるはずである。

ハンドボール部は大同大学の強化クラブであり、いろいろな人が関わり、支えてくれている。スポーツは一人ではできない。対戦相手や審判、応援してくれる人がいて、初めてスポーツは成り立つ。だから、関わっている人、支えてくれる人たちに喜んでもらう、成果を見せられるような行動や結果につなげなければいけないと考えている。

地域の小学生を対象にしたハンドボールスクールでの指導にも力を入れ、男女ハンドボール部が全面的に協力している。この活動もまた、スポーツを通じて人とつながり、人と共に成長していくことが目的の一つだ。
「学生や周囲の人からもらう刺激が今も、僕を成長させてくれている」と、先生は言う。

夢に向かって走り続ける。

齊藤先生

齊藤先生のこれまでを振り返ってみると、ハンドボールを通じて出会い、つながり、多くの人々を支え、支えられてきたことがわかる。また、ハンドボールや大学院での学びを通じて培った、「諦めない」「とことんまでやり抜く」という気持ちは、どんな時にも、先生に前へ向かわせる力を与えてくれた。そして仲間への優しさや気配りの積み重ねが、さらなるつながりや縁を生んだ。

今、その恩返しのつもりで、女子ハンドボール部の日本一をめざしてがんばりたいと先生は考えている。もちろんまだまだ課題も多い。道のりは険しい。人によっては「そんなのは無理だろう」と言うかもしれない。

しかし、先生は諦めない。とことんまでやり抜くつもりだ。そして日本一をめざす過程で、共に成長した選手たちが強さと優しさを持った気配り上手なお母さんとして子どもを連れてきてくれるのを夢見ている。そんな支え、支えられる関係が新たなつながりや縁を生むはずだ。

ハンドボールが好きだ。だから、今の自分がある。
「何だろう、あの空気感というか…。ハンドボールのコートに立った時の雰囲気がなぜか僕に合っているんです。松やにの付いたボールや靴のにおい、選手の声、審判の笛の音、歓声。ハンドボールを支えてくれているみんなとのつながりを感じられるような気がして」
そんな「つながり」を求めて、今日も先生は前を向く。学生と共に学び、成長しながら、先生は夢に向かって走り続ける。

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