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情熱主義

#09

奇跡はきっと、起きる。夢に向けた強い気持ちと熱い情熱、そしてそのための努力は、きっと報われる。 情報学部 総合情報学科経営情報専攻 佐藤 壮一郎 奇跡はきっと、起きる。夢に向けた強い気持ちと熱い情熱、そしてそのための努力は、きっと報われる。 情報学部 総合情報学科経営情報専攻 佐藤 壮一郎

大同大学男子ハンドボール部監督、佐藤 壮一郎先生には子どもの頃から体育の教員になりたいという夢があった。
その夢の実現のために体育大学の付属高校に入学し、強い競技で秀でてやろうと考えた。その高校の強豪クラブはハンドボールとゴルフ。ゴルフにはお金も必要だったし、雰囲気になじめそうにないと思った。だから、自分にとって未知の世界であるハンドボールを選んだ。

どん底から這い上がった、ハンドボール人生。

高校でのハンドボール部の練習は過酷だった。厳しい練習に身体が音を上げ、全身がけいれんした。過酷すぎる練習にもう行きたくないと胃潰瘍になったこともある。佐藤先生のハンドボール人生の始まりは、まさにどん底からのスタートだった。だが先生は諦めなかった。諦めずがんばり続けると、先輩や指導者にも恵まれて、どうにかハンドボールの世界で力を発揮することができるようになった。

佐藤先生

1991年(平成3年)、佐藤先生が大学4年になった頃、翌年のバルセロナオリンピック出場をめざすハンドボール日本代表はアジア予選で大敗を喫し、1972年(昭和47年)の初出場から続くオリンピックへの連続出場を逃した。その結果、日本代表チームの若返りを図るため、若手の選手が集められて新生Japanの選考会が開催された。ここで佐藤先生は日本代表に選ばれることになる。教員になるという夢を一度諦め、オリンピック出場という大きな夢を追った。

大学卒業後、実業団の強豪である大同特殊鋼に入り、ひたすらハンドボールの道を歩む。チームは何度も日本一に輝くが、日本代表としてはオリンピック出場の夢はかなわなかった。30歳で現役を引退、再びスポーツの教員をめざして、大同大学(当時は大同工業大学)へ。2000年(平成12年)のことだった。

大同大学ハンドボール部、ゼロからのスタート。

大同大学への着任が決まると佐藤先生は、ただちにハンドボール部の立ち上げにとりかかった。今でこそ、ハンドボール関係者や愛好者であれば、大同大学の名を知らない人はいない。しかし、その当時は、まだ部が存在すらしていなかった。

先生の初仕事は、沖縄から北海道まで全国を回って選手を勧誘することだった。まだ何もない部への勧誘の決めゼリフは「大同特殊鋼のハンドボール部の独身寮に入れるよ」だった。野球に例えるなら、「読売巨人軍の選手と衣食住を共にして練習ができる」という意味に等しかったからだ。

チーム立ち上げ1期生の選手に対して、佐藤先生が期待したのは、技術や体力よりも、「心」だった。やがては後輩たちを引っ張っていく強い気持ちとハンドボールへの熱い情熱こそが選考基準だった。「この子ならひたむきに戦ってくれる」と信じた高校生に的を絞って、選手集めに東奔西走した。今から19年前のことだ。

成長の原動力はライバル。

佐藤先生は、5年間で大同大学ハンドボール部を日本一にすると目標を立てた。東海学生リーグの4部からスタートして順当に戦っていけば、1期生が2年生の春には1部リーグに上がることができる。
大同大学男子ハンドボール部は、1部リーグ昇格へ向けて無敗で勝ち上がっていった。新聞やテレビなどでも取り上げられるほど、その活躍は、学生ハンドボール界を驚かせた。

佐藤先生

破竹の勢いで1部リーグに昇格したが、当時東海学生リーグで常勝であった中部大学と初めて対戦すると、19点という屈辱的な大差で負けた。そこから二度目の対戦では14点差、三度目は8点差と徐々に差をつめていった。そして、ついに四度目の対戦で延長戦にまでもつれた激戦を制して、中部大学に勝利した。ハンドボール部を創部して3年目、4年生がいないチームで中部大学に勝利することができた。この成長はライバルのおかげだと、佐藤先生は言う。
以来、ライバルとしのぎを削りながら、大同大学男子ハンドボール部は一度たりとも全国大会出場を途切れさせたことはない。

しかし、日本一という目標までは、まだ道半ばだ。その目標へ向かって、ハンドボールへの情熱と後輩たちを思う熱い心は、今も脈々と受け継がれている。
男子ハンドボール部を取り巻く環境もチームの成長とともに大きく変化してきた。1期生が卒業した後に付属高校でチームを立ち上げたり、大学に女子チームができたり、さらに東海市に大同特殊鋼のOBや佐藤先生たちが指導する子ども向けのハンドボールスクールができ、これらのチームから大学ハンドボール部に良い人材を集める好環境ができあがっていった。

試合で100%の力を発揮するために。

佐藤先生が練習の中で繰り返し選手たちに言うのは「全力・元気・集中」。これは佐藤先生が考える「120%理論」に基づく必要なことだ。練習を80%の力でやっていては、試合でのパフォーマンスは60%くらいになる。練習を100%の力でやっても試合では80%。残り20%を上げるにはどうしたらよいか。練習中、大きな声を出したり、思い切り「元気に振る舞うこと」「集中すること」で、力は20%かさ上げされるという。だから自分の「全力」を尽くして120%の力で練習に臨む。そうしてようやく試合で100%の力が出せる。

佐藤先生

選手全員がいつもあらゆる面で100%の力を出すのは難しい。だからこそチームがある。チームはハンドボールの技術が高い学生だけが集まっていれば勝てるというものではない。組織として、ムードメーカー的な役割も必要だし、戦略を考えて指示する役割も必要だ。それぞれの選手の長所を見極め、適切な役割を与え、全力で役割をまっとうさせる。そうやって個々の長所を伸ばしつつ、足りない部分をチームで補っていく。

たとえ技術が劣っていたとしても、試合中にひたすら、大声を出してチームの士気を高める人間がいることは、それだけでチームの力を20%引き上げてくれるのだから、不要な人材など誰1人としていない。

「夢」はつくるものだ。

佐藤先生が「夢」を実現する道のりは、決して平坦ではなかった。しかし、どん底から這い上がった自らの経験は、今、夢を見なくなったと言われる子どもたちに、何らかの力を与えることができるのではないか。佐藤先生はそう考え、地域の子どもたちにハンドボールを教えたり、小学校の「道徳」の時間に出かけて行き、自分の経験を伝えている。

「夢」は、つくるものだと、佐藤先生は言う。
「君たちの好きなものは何だろう。得意なものは何だろう。好きなものと得意なものを足してみれば、それが“夢”になる。僕は子どもが好きで、スポーツが得意だった。これを足したら、“体育の先生”という答えになった」。
例えば、おいしいものが好きで、手先が器用なら、足してケーキ職人というわけだ。夢ができたら、その夢に向かって走り続ける力を持てる。目標に向かって努力することができる。

奇跡はきっと、起きる。

佐藤先生

佐藤先生には、忘れられない思い出がある。部員の1人が難病にかかった。病気からは回復したものの、支えがなくては自力で立ち上がることもできなくなった。治療のためにハンドボールを諦め、地元福岡に帰ることになった。見送る際、佐藤先生はその部員に声をかけた。
「俺たちは全国大会で優勝する。その時までには歩けるようになって、応援に来てほしい」。

佐藤先生との約束を支えに、彼は必死でリハビリに取り組んだという。くじけることなく、ただ仲間たちの勝利を自分の目で確かめるために。それから5年の月日が流れた。

全日本学生選手権で初のベスト4進出をかけた試合当日、彼は福岡から4時間かけて列車を乗り継ぎ、会場の徳島へ来た。
試合前に車椅子ではなく、自分の足ですっと立つ彼を見て、佐藤先生は確信した。
「奇跡はきっと、起きる」。
佐藤先生と感動の再会を果たした彼は試合前の部員たち全員と握手を交わした。
その日の対戦相手は佐藤先生の母校でもあり、何度も日本一になっている強豪日本体育大学。これまで三度戦って、一度として勝ったことがない相手だった。そして奇跡は起きた。難病を乗り越えた彼の力が、仲間たちに乗り移ったかのように、大激戦の末、初のベスト4を勝ち取った。
観戦していた彼もまた、後輩たちの健闘に奮起し、「いつかハンドボールのコートに再び立ちたい」と、新たな目標を後輩たちに約束した。
大同大学男子ハンドボール部の学生日本一の夢と、彼の再びハンドボールコートへという夢は、いつかきっと実現する。
夢に向けた強い気持ちと熱い情熱、そしてそのための努力は、きっと報われる。
佐藤先生はそう信じている。

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