9月10日17時20分、宇宙開発事業団のH-2Aロケット3号機が打上げられた。H-2Aは日本の主力ロケットだ。
このロケットの能力は世界最高水準のもので、1年10機の注文があれば、価格の面でも、世界のロケット市場で十分太刀打ちできる。
世界第1級の日本のロケット技術は、糸川英夫博士なしではありえない。誰もが糸川を日本の宇宙開発の父と云う。
1953年、東京大学生産技術研究所教授であった41歳の糸川は、アメリカから帰国後、研究所長に進言した。「アメリカはすでにロケットの時代に入りつつあります。我々もロケット機をやりましょう。ジェット機と違って空気のない所でも飛べるロケットで、宇宙を自由に飛び回りましょう」
彼の言葉は周囲を動かし、長さ23cmの超小型ロケットの試作が開始された。これがペンシルロケットである。
55年には、東京都下国分寺でペンシルロケットの水平発射実験が行われた。次いで秋田県道川海岸にロケット実験場が開設されて、海へ向かってのロケット発射実験が行われた。
ロケットはだんだん大きくなり、名前もペンシルロケットから、ベビー、K(カッパー)、L(ラムダ)、M(ミュー)と変わっていった。
4回失敗の末、1970年、鹿児島内之浦からラムダロケットで、我が国最初の人工衛星の打上げに成功したのである。
糸川教授は成功を見ることなく、失敗の責任をとって東京大学を辞任し、ロケットと全く関係のない新しい仕事を始めて、世の中を驚かせた人でもある。1999年87歳で逝去した。
糸川教授の育てたロケット研究組織は、64年には東大附属の宇宙航空研究所になり、81年には文部省直轄の宇宙科学研究所に成長した。
来年、この研究所は宇宙開発事業団と航空宇宙技術研究所と統合して、宇宙航空研究開発機構に生まれ変わる。
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