
私が大同工業大学の学長に就任したのは1999年4月です。それまでは研究が中心の生活を送っていました。研究と言っても自分自身の研究ばかりでなく、研究を通じて後継者育成に力を注いできたつもりです。
大同工業大学に赴任後は、正面から教育に取り組んでいます。最大の関心事はいかにして、一人でも多くの学生から才能を引き出すことができる新しい仕組みをつくり出すかです。
3年間の学長の体験と思考を元に書いたものが、「才能を開花させる魔法を求めて」(『私学経営』2002年)です。是非ご覧下さい。ご意見をお待ちしています。
私は学長であると同時に宇宙航空研究開発機構(JAXA)において国際宇宙ステーション完成後の産業利用計画プロジェクトの責任者を務めています。私が初めて宇宙実験プロジェクトに参加したのは、東京工業大学の助教授時代の1979年のことでした。当時のNASDA(現宇宙航空研究開発機構。以下同じ)は、アメリカ航空宇宙局(NASA)が開発中のスペースシャトルを利用する宇宙実験プロジェクトをいかにして立ち上げるか、試行錯誤をくり返していました。
その推進役として材料の専門家が必要であったのです。当時は宇宙材料実験の経験のある研究者は世界でも、数えるほどしかいませんでしたので、好奇心の強い若手研究者を探し出して、プロジェクトマネージャーを育てることがNASDA(当時)の目的であったようです。その候補者として、私に白羽の矢が当たったのです。
NASDAの嘱託としてこのプロジェクトを手伝わないかと持ちかけられ、私は二つ返事で飛びつきました。それが、私と宇宙との係わりの始まりです。それから23年間が過ぎました。その間、毛利衛さんの搭乗したスペースシャトルで行った宇宙実験の裏方として、多くの得がたい経験をしました。その経験を通じて、遂には私自身が宇宙飛行士になりたいという希望がだんだんと強くなって行きました。スペースシャトル・コロンビア号の分解事故が起きた後でも、その気持ちは変わりません。夢の中で宇宙体験をすることもしばしばです。
大学の仕事とフィクションの世界の出来事を交差させた随筆(大学新聞『DAIDO CAMPUS』2002年・2003年1月号に掲載)を、コンテンツ『学長の初夢』に転載しました。併せてご覧下さい。
大同工業大学に赴任後は、正面から教育に取り組んでいます。最大の関心事はいかにして、一人でも多くの学生から才能を引き出すことができる新しい仕組みをつくり出すかです。
3年間の学長の体験と思考を元に書いたものが、「才能を開花させる魔法を求めて」(『私学経営』2002年)です。是非ご覧下さい。ご意見をお待ちしています。
私は学長であると同時に宇宙航空研究開発機構(JAXA)において国際宇宙ステーション完成後の産業利用計画プロジェクトの責任者を務めています。私が初めて宇宙実験プロジェクトに参加したのは、東京工業大学の助教授時代の1979年のことでした。当時のNASDA(現宇宙航空研究開発機構。以下同じ)は、アメリカ航空宇宙局(NASA)が開発中のスペースシャトルを利用する宇宙実験プロジェクトをいかにして立ち上げるか、試行錯誤をくり返していました。
その推進役として材料の専門家が必要であったのです。当時は宇宙材料実験の経験のある研究者は世界でも、数えるほどしかいませんでしたので、好奇心の強い若手研究者を探し出して、プロジェクトマネージャーを育てることがNASDA(当時)の目的であったようです。その候補者として、私に白羽の矢が当たったのです。
NASDAの嘱託としてこのプロジェクトを手伝わないかと持ちかけられ、私は二つ返事で飛びつきました。それが、私と宇宙との係わりの始まりです。それから23年間が過ぎました。その間、毛利衛さんの搭乗したスペースシャトルで行った宇宙実験の裏方として、多くの得がたい経験をしました。その経験を通じて、遂には私自身が宇宙飛行士になりたいという希望がだんだんと強くなって行きました。スペースシャトル・コロンビア号の分解事故が起きた後でも、その気持ちは変わりません。夢の中で宇宙体験をすることもしばしばです。
大学の仕事とフィクションの世界の出来事を交差させた随筆(大学新聞『DAIDO CAMPUS』2002年・2003年1月号に掲載)を、コンテンツ『学長の初夢』に転載しました。併せてご覧下さい。