
TOP > プロフィール > 前途多難な国際宇宙ステーション
第1次材料実験は当初の目標である1988年から1992年まで延びた。86年のスペースシャトル・チャレンジャー号の爆発が遅延の最大の理由であった。その間、私は毛利衛、向井千秋(当時、内藤)、土井隆雄宇宙飛行士候補者の訓練を担当したこともあり、彼らとの交流を通じて、私自身、宇宙飛行士になりたいとの想いは強くなる一方であった。
チャレンジャー事故の直後、3人の候補者が辞退するようならば、私は即座に名乗りをあげたであろう。しかし、3人の飛行士候補者は、この事故によって、シャトルの信頼性は一層高まるであろうから、飛行の日をじっと待つと記者会見で述べ、私をがっかりさせた。
1992年、毛利宇宙飛行士が搭乗したスペースシャトル・エンデバー号で宇宙実験が実施され、93年に実験報告書を刊行してこのプロジェクトは終了した。3人の飛行士に続いて、第2期飛行士の募集が行われ、若田さんと、野口さんが選ばれた。94年には向井さんが、96年には若田さんが飛行した。土井さんは97年と遅れたが、日本人初めての宇宙服を着て宇宙遊泳を行った。向井、毛利、若田さんの順で第2回目の飛行が行われたが、野口さんはまだであった。彼は来年春に、国際宇宙ステーションの組み付け飛行に参加することになっており、現在も訓練が行われている。
さらにその後、99年に宇宙ステーションで働く3人の宇宙飛行士候補者が選考され、訓練が行われている。 国際宇宙ステーションは、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ宇宙機関、ロシア、そして我が国も参加する大国際プロジェクトである。日本の費用分担は完成まで約3200億円、完成後10年間、毎年5000億円が必要とされている。宇宙ステーションの利用権は費用分担に応じて、割り当てられる。3200億円負担は、全体の12.8%に相当し、日本人宇宙飛行士を毎年6ヶ月滞在させる権利をもっている。当初計画では、国際宇宙ステーションが2005年頃に完成し、新たに選ばれた3人の飛行士が順番に滞在する計画であった。一人6ヶ月間の滞在は辛いが往復のコストを考えると、我慢してもらわなければならない期間である。
アメリカ大統領がクリントンからブッシュに代わり、宇宙政策が大幅に変更された。ロシアの脅威がなくなった現在、アメリカの国威発揚という国際宇宙ステーション建設の政治的意義がほとんどなくなったのだ。宇宙ステーションの建設経費は当初計画を大幅に超えていた。
ブッシュ大統領は、当初計画を超えた経費は認めないことを言明した。このため、宇宙ステーションに事故が発生した場合の緊急帰還機の開発が凍結されることになった。ロシアの有人ロケット・ソユーズのカプセルが飛行士を運んだ後、帰還用に使用されている。これは3人乗りである。このため、当面、宇宙ステーションには3人しか長期滞在できないことになってしまった。
日本人飛行士の宇宙ステーション長期滞在は、2010年頃まで延びる心配がある。彼らが飛行士に応募したのが、2000年であったから、10年以上待つことになりそうだ。宇宙飛行士に求められるもっとも大切な資質は、どっしりと人生を楽しみながら5年でも、10年でも待つことができることである。しかも、宇宙飛行士に必要な健康状態を維持しなければならない。
私が国際宇宙ステーション計画の裏方としてプロジェクト推進に参加したのが、1990年頃からであり、学長業とともに、宇宙開発事業団の統括研究リーダーとして国際宇宙ステーションの応用研究利用計画の責任者を務めている。
2003年度中に宇宙開発事業団は宇宙科学研究所、航空航空宇宙技術研究所と統合し、独立行政法人宇宙航空研究開発機構の中に姿を消す。現在、新機構準備段階での最大の懸案は日本が独自に有人宇宙を開発することの是非についてである。もちろん、私は有人宇宙推進派であり、自分自身が被験体になることを夢見ている次第である。
(以上、2003年記述)
チャレンジャー事故の直後、3人の候補者が辞退するようならば、私は即座に名乗りをあげたであろう。しかし、3人の飛行士候補者は、この事故によって、シャトルの信頼性は一層高まるであろうから、飛行の日をじっと待つと記者会見で述べ、私をがっかりさせた。
1992年、毛利宇宙飛行士が搭乗したスペースシャトル・エンデバー号で宇宙実験が実施され、93年に実験報告書を刊行してこのプロジェクトは終了した。3人の飛行士に続いて、第2期飛行士の募集が行われ、若田さんと、野口さんが選ばれた。94年には向井さんが、96年には若田さんが飛行した。土井さんは97年と遅れたが、日本人初めての宇宙服を着て宇宙遊泳を行った。向井、毛利、若田さんの順で第2回目の飛行が行われたが、野口さんはまだであった。彼は来年春に、国際宇宙ステーションの組み付け飛行に参加することになっており、現在も訓練が行われている。

アメリカ大統領がクリントンからブッシュに代わり、宇宙政策が大幅に変更された。ロシアの脅威がなくなった現在、アメリカの国威発揚という国際宇宙ステーション建設の政治的意義がほとんどなくなったのだ。宇宙ステーションの建設経費は当初計画を大幅に超えていた。
ブッシュ大統領は、当初計画を超えた経費は認めないことを言明した。このため、宇宙ステーションに事故が発生した場合の緊急帰還機の開発が凍結されることになった。ロシアの有人ロケット・ソユーズのカプセルが飛行士を運んだ後、帰還用に使用されている。これは3人乗りである。このため、当面、宇宙ステーションには3人しか長期滞在できないことになってしまった。
日本人飛行士の宇宙ステーション長期滞在は、2010年頃まで延びる心配がある。彼らが飛行士に応募したのが、2000年であったから、10年以上待つことになりそうだ。宇宙飛行士に求められるもっとも大切な資質は、どっしりと人生を楽しみながら5年でも、10年でも待つことができることである。しかも、宇宙飛行士に必要な健康状態を維持しなければならない。
私が国際宇宙ステーション計画の裏方としてプロジェクト推進に参加したのが、1990年頃からであり、学長業とともに、宇宙開発事業団の統括研究リーダーとして国際宇宙ステーションの応用研究利用計画の責任者を務めている。
2003年度中に宇宙開発事業団は宇宙科学研究所、航空航空宇宙技術研究所と統合し、独立行政法人宇宙航空研究開発機構の中に姿を消す。現在、新機構準備段階での最大の懸案は日本が独自に有人宇宙を開発することの是非についてである。もちろん、私は有人宇宙推進派であり、自分自身が被験体になることを夢見ている次第である。
(以上、2003年記述)