
TOP > 初夢 > 航空機事故夢体験

私は2007年に68歳で国際宇宙ステーションに搭乗した。あれから、私は高齢者の星として、国内はおろか、世界中から講演に引っ張りだこの忙しい毎日であった。移動の多い不規則な生活のため70歳の時には、電車のレールの上を踏み外すことなく10mも歩けなくなり、平衡感覚に不安を感じて航空機操縦をやめることを決心した。
私が航空機操縦免許をとったニューメキシコ州ソコロ市で単独飛行を行った後で、パイロットの免許を返上することとした。2009年12月30日15時から4時間、私が最初の訓練を受けたと同型のセスナ172N型機を予約した。夕日に照らされた砂漠の単独飛行は悪いものではない。きっと飛びながら涙がでるだろうと思った。空との別れの儀式でもあった。
16時10分離陸、40分ほどでサンタフェ空港へ着陸、大急ぎでコーヒーを1杯飲み、トイレを使い、帰還の予定であった。しかし、高地にあるサンタフェ空港は風の方向が目まぐるしく変わっており、管制塔からの離陸許可まで1時間ほど待機させられた。
離陸は18時、既に夕日が落ちる寸前であった。ソコロ着は18時40分頃になるはずであった。ソコロ空港は18時に無人になり、すべてセルフサービスの田舎の飛行場であった。滑走路に近付いたところで、飛行機から信号を送ると滑走路の照明が点灯するはずであった。しかし、いくらスイッチを押しても、ライトは点灯しなかった。
薄明かりの中、滑走路はなんとか判別できたが、風向きを示す吹き流しはほとんど見えなかった。空港を無線で呼んだが返事はなかった。最寄りの定期便空港であるアルブカーキ空港の管制官を呼んで、助けを求めるべきであったが、不覚にも甘く見て着陸を決心して滑走路に進入した。
事故調査官の報告書には、滑走路には約15mの右横風が吹いていたと記載されていた。左への横滑りから右へラダー(方向舵)を操作して立て直しを行ったと思われる。着地直前にセスナは左に傾き、叩きつけられるように左のギア(車輪)が接地後、機は反時計回りに270度回転して横転した。機は大破したが、火災が発生しなかったのは幸いであった。
救援が駆けつけるまで約15分、私は傾いた座席にベルトで固定されていた。全身強打のうえ左足首の複雑骨折であった。意識は全くなく、救急車はハイウエイを北へ、アルブカーキへ私を運んだ。

16時10分離陸、40分ほどでサンタフェ空港へ着陸、大急ぎでコーヒーを1杯飲み、トイレを使い、帰還の予定であった。しかし、高地にあるサンタフェ空港は風の方向が目まぐるしく変わっており、管制塔からの離陸許可まで1時間ほど待機させられた。
離陸は18時、既に夕日が落ちる寸前であった。ソコロ着は18時40分頃になるはずであった。ソコロ空港は18時に無人になり、すべてセルフサービスの田舎の飛行場であった。滑走路に近付いたところで、飛行機から信号を送ると滑走路の照明が点灯するはずであった。しかし、いくらスイッチを押しても、ライトは点灯しなかった。
薄明かりの中、滑走路はなんとか判別できたが、風向きを示す吹き流しはほとんど見えなかった。空港を無線で呼んだが返事はなかった。最寄りの定期便空港であるアルブカーキ空港の管制官を呼んで、助けを求めるべきであったが、不覚にも甘く見て着陸を決心して滑走路に進入した。
事故調査官の報告書には、滑走路には約15mの右横風が吹いていたと記載されていた。左への横滑りから右へラダー(方向舵)を操作して立て直しを行ったと思われる。着地直前にセスナは左に傾き、叩きつけられるように左のギア(車輪)が接地後、機は反時計回りに270度回転して横転した。機は大破したが、火災が発生しなかったのは幸いであった。
救援が駆けつけるまで約15分、私は傾いた座席にベルトで固定されていた。全身強打のうえ左足首の複雑骨折であった。意識は全くなく、救急車はハイウエイを北へ、アルブカーキへ私を運んだ。

2003年1月2日早朝、ベットの中で身体を動かすと肩が痛み、軽い嘔吐感がして気分は最悪であった。だんだんと昨夜の自分の醜態がとぎれとぎれに思い出されてきた。飲み過ぎて階段を踏み外したのだ。骨折が心配であったが、大丈夫のようだ。とんだ初夢を見てしまったようである。しかし、大同工業大学については、正夢であって欲しいものだ。さあ今年も頑張ろう。