
TOP > 国際宇宙ステーションへの招待

大同工業大学を退職する前の年の2004年の10月、私は文部科学省の日露科学協力推進委員会委員長として、10日間にわたりシベリアの大学や研究機関を訪問した。ウラル山脈から東側をシベリアと定義すると、シベリアはロシア連邦の半分以上を占める広大な地域である。西シベリア平原の東端の学術研究都市ノボシビルスク訪問の後、シベリア中央に位置するクラスノスヤルスクを訪問した。
クラノスヤルスクには大きな水力電力所があり、原子爆弾製造のためのウラン濃縮工場があった都市である。この都市で行われた歓迎夕食会には、大統領科学補佐官T教授がモスクワから私に会いにきた。10年振りの再会であった。
1994年夏にクラノスヤルスクで開催された国際会議の主催者を務め、アカデミー会員でもあるT教授は、2002年秋からプーチン大統領の科学補佐官を務めている大物学者でもあった。国際会議のパーティで、彼と私は生まれた年が同じであることで意気投合し、何回もウオッカで乾杯をくり返している内に私は意識を失い、気がついた時は彼のアパートのベットであった。それから、クリスマスカードを交換していたので、モスクワに住所が変わったのは知っていたが、大統領補佐官になったとは全く知らなかった。
夕食会の後、彼の実家で再会を祝してお決まりのウオッカで乾杯がくり返された。今度は醜態は見せられない。話題は2001年に廃棄されたロシアの宇宙ステーション・ミールのこと、ロシアも参加して建設大詰めの国際宇宙ステーションなど話題は尽きなかった。
酔いつぶれる一歩前で踏み止まり、ホテルへ帰る別れ際、彼は私にまだ宇宙へ行くという望みに変わりないかと聞いた。1990年に私がココム違反を犯してまでも、ミールステーションに行きたかったという危ない話を、国際会議のパーティで彼にしたことを覚えていたのだ。
翌朝、ホテルへ彼が真顔で私を訪ねてきた。日露共同プロジェクト推進の象徴として、建設中の国際宇宙ステーションに私が搭乗できるよう大統領に働きかけてみたいとの提案であった。
私にとってはこんなうまい話はない。宇宙飛行士としての医学検査に合格できるだろうか、急に心配になってきた。私は2005年3月に大同工業大学を退職後直ぐにロシア語の特訓を開始した。留年を含めて大学で3年間ロシア語を勉強したことがここで役立つとは思わなかった。
夏から3ヶ月、トレーナ指導のもとに体力増強訓練が行われ、酒も断った。10月にモスクワで医学検査を受け、なんとか合格した。しかし、ロシア政府筋からの圧力で、検査は相当に甘かったことを後にモスクワ郊外に星の町での訓練の時、担当の医者から聞いた。
ロシアではすでに3人の外国人を建設中の国際宇宙ステーションに接続しているロシアの居住棟に搭乗させていた。ただし、1週間の宇宙滞在と往復合わせて費用は2000万ドル(26億円)であった。私の場合は無料である。しかし、ただ程高いものはないというではないか。26億円相当の見返りをロシアが求めないはずはない。
しかし、宇宙への魅力には勝てなかった。