
TOP > 初夢 > ソ連崩壊前夜のモスクワ

1990年12月、TBS(東京放送)の秋山豊寛は、ソ連の宇宙船ソユーズで打ち上げられ、宇宙ステーション・ミールに1週間滞在した。宇宙開発事業団が日本人最初の宇宙飛行士を誕生させる計画立案者にとって無念の事件であった。
TBSの社員から選ばれた2人の候補者は、打上げ直前までモスクワ郊外の星の町で宇宙飛行士の訓練が行われた。
TBSがソ連に支払った額は、約40億円といわれている。当初の契約では2000万ドル(26億円)であったが、これは基本金であり、地上へのテレビ中継などの追加項目については、相当に高い額が要求された。当時日本の経済はバブル絶頂期であり、追加支払いにぶつぶつ言いながら、TBSは同社の記念事業として、日本人初宇宙飛行士の誕生に一役買った訳であった。
崩壊直前のソ連はあらゆるものが乱れていた。私は1990年春、日中でも零下のモスクワを訪ねていた。訪問先は科学アカデミー宇宙研究所であった。夜は宇宙実験部長のM博士の自宅に招待された。
会話が弾み、私は酒の勢いで宇宙飛行士になりたいと云った。TBSの秋山さんのように、ソユーズでミールへ行きたいといった。ただし、一銭も払えないと云った。同席のアカデミー会員である大物S教授は真面目に検討してみると云った。酒の上での冗談程度に考えて帰国した。
その年の12月、秋山特派員は無事に宇宙飛行を終えて帰国した。
91年1月に突然M博士から1通のファックスが舞い込んだ。そこには「無重力下でのダイヤモンド膜合成の共同研究を実行したいので、詳細な計画書を送ることを要請する。宇宙実験装置は日本側で用意すること、実験者として貴殿のミール滞在に努力すること」と書かれていた。
どんなに安く見積もっても必要な実験装置の製作には1億円は必要だ。その上、当時、日本からソ連へ持ち出せるハイテク機器はココム(対共産圏規制物資規則)によって制限を受けていた。32ビットのパソコンさえココムの対象であった。どんなに急いでも資金確保は92年までかかる見通しであった。
忙しく準備を進めていた91年夏にソ連が崩壊してロシアが誕生し、M博士の消息が途絶えた。それから2年後、夫と離婚して、アメリカへ移住し、アメリカ人教授と結婚したM博士から共同研究を再開したいとの手紙を受けとった。彼女の生命力の強さには驚かされたが、宇宙飛行の機会のない共同研究にはもう魅力はなかった。