
TOP > 初夢 > 1980

私がはじめて宇宙開発の仕事に係わったのは1979年のことだから、もう27年も前のことになる。当時は東京にある理工系大学の助教授の頃だ。6月のある日、当時の宇宙開発事業団(現宇宙航空研究開発機構(JAXA)。以下同じ)のS氏が私を訪問ねてきた。NASA(米国航空宇宙局)のスペースシャトルを使った宇宙実験プロジェクトを手伝わないかという誘いであった。
新素材開発を宇宙実験の主なテーマにしたいので、材料研究の専門家を捜しているとことであった。スペースシャトルの半分を借りて、日本人宇宙飛行士の手で実験をう計画であった。
この話を聞いたとき、私は宇宙実験そのものより、日本人宇宙飛行士のほうに興味があった。その年の秋から、週2回の宇宙開発事業団勤めが始まった。最初の仕事は宇宙実験テーマ募集であった。
スペースシャトルの最初の打上げが1981年に行われた。日本の実験予定は86年であった。宇宙飛行士の募集は83年に行われた。募集が開始したが、なかなか目標の100人に達しなかった。理系の博士号をもち、研究業務の経験があることが条件であった。この条件は私にピッタリだった。
なかなか応募者の数が増えず、宇宙開発事業団では、内部の人間で条件に合う者を応募させて、数を確保することが検討しはじめた。私もその候補者の1人であった。
そのことを聞いたとき、私はまんざらではなかった。声がかかったら応募し、難関に挑戦するのも悪くないと考えていた。
応募者が増えないのは、職場の責任者の同意書が必要であり、内緒で応募できないからであった。しかし、その年の暮れには応募者の数が急に増えて、内部の人間を応募させるというはなしは立ち消えとなった。
私にとって問題だったのは、「過去に記憶喪失の経験のある者は宇宙飛行士になれない」という選考条件であった。私は大学院生の時、北海道ニセコ山頂付近でスキー滑走中に転倒して頭を強打し、半日間であったが記憶喪失の経験がある。これを正直に申告すると、書類選考の段階ではずされる可能性が大きかった。1986年1月、スペースシャトル・チャレンジャー号の爆発事故によって、日本人宇宙飛行士候補者毛利衛、向井千秋、土井隆雄の訓練がストップした。この年の4月からこの3人はアメリカで訓練の予定であったが、スペースシャトル運行再開の見通しはなかった。当分は国内で勉強することとなった。週1回、午後一杯英語で行われる理工学ゼミを私が担当することになった。半年以上が過ぎた頃には、飛行士候補者3人と意識を共有する中で私も宇宙飛行士になりたいとの気持ちがだんだん強くなっていった。予想よりはるかに早い88年に飛行が再開され、92年に毛利が、94年に向井が、97年に土井が初飛行を行った。日本政府は1984年にアメリカの国際宇宙ステーション計画に参加を表明し、私の宇宙開発事業団での仕事はスペースシャトルから国際宇宙ステーションの利用計画の立案へと変わっていった。この仕事は99年に大同工業大の学長に就任してからも続いた。私は大同工業大学を2005年3月に退職した。その年の4月には本学に医療理工学部が新設され、本学は3学部8学科へ成長していた。私は老化が進まない内にできるだけ早く国際宇宙ステーションを訪問して、20年以上係わってきた仕事に区切りをつけたかった。しかし、2006年に予定されていた宇宙ステーションの完成は2008年に延びていた。2001年から深刻化した世界的不況は03年頃から回復し始めたが、その影響でステーションの建設資金は足りなく、完成時期は遅れる一方であった。まだ1〜2年は延びるかも知れなかった。最悪の場合、国際宇宙ステーションは2010年に完成し、私は72歳になってしまう。