明治以降の土木箏業

1、明治時代と土木事業の傾何

黒船来航に鎮国の夢を破られた日本は、幕末の激動を経て異質の西欧文明を一挙に積極的に受け入れることになる、かつて大陸文明を導入して見事に同化させ独自の発展に成功した日本は、明治を迎えて野心的な試練を跳んだ。その受け入れ方は極めて日本的であり、世界史に類例のない経験を自ら手にいれたといえる。その具体的方法としては、多数の外国人を雇って日本に科学技術の成果を伝え、日本人を育成することであった。いわゆるお雇い外国人である。お雇い外国人は、政府のみならず、地方庁、民国財団からも雇われ、高給を持って手厚く雇われた。その国籍、職業も極めて多様であった。村松貞太郎の調査によれば、表の通りである。1868(明治元)年から1889(明治22)年までに雇用された外国人総数は2,299名、

内イギリス928、

アメリカ合衆国374、

フランス259、

シナ253、

ドイツ175、

オランダ87など

世界各国に及んだ。その中で土木関係は146名であり、おそらく他の分野よりも多かったと思われる。

   表―1 土木関係国別

   イギリス 108人

   オランダ  13

   アメリカ  12

   フランス  11

   ドイツ    1

   フィンランド 1

   計     146人

  

   表―2職業別分類

   職種        人数

   鉄道(敷設・建築) 59

   測量(教師・測量師)31

   電信敷設      14

   鉱山土木      14

   治水・水理・港湾  11

   土木一般       9

   陸海軍土木      8

   土木工事教師     8

   道路         4

   建築師        4

   灯台         3

   水道         2

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このようなことから明治新政府が国土開発に並々ならぬ意欲を持っていた証拠である。。村松によれば、その146名の国別、雇い上げ官公庁等、職種別に分類すると、それぞれ表のようになりイギリス人ならびに鉄道閃係者が圧倒的に多いことがわかる。このことから新政府首脳が、国土開発の最も重要な手段として鉄道を考えていたことが明らかであり、銑遺の先進国としてイギリス、もしくはアメリカを考えるのは当時としては自然であった。また、明治政府が公共事業の中でも特に鉄道に力を入れていたことほ、公共投資額の中に占める鉄道投資の比率が図−1に示すように桓めて大きかったことによっても明瞭であり、明治初期のお雇い外国人の相当数を鉄道関係者が占めていたことを示している。よって以後は鉄道と、これに次いで明治維新が力を入れていた治水事業について述べることにする。主としてファン・ドールンと古市公威を中心に述べる。

 

2.鉄道関係事業

前に述べたように、明治時代の政府は国土開発に力を入れていたわけであり、鉄道が文明を全国に運んだ。その鉄道と最も関係の深い、明治時代のトンネルについて述べる。

鉄道建設の概略(匿史)

  1. 1869(明治2)年 
  2.  東・西両京を結ぶ鉄道を幹線とし、その経路は未定のまま新宿・横浜間に先ず取りかかる。

  3. 1870(明治3)年〜1872(明治5)年
  4. 新橋・横浜間開通(日本初の鉄道)、次いで、京都一神戸間着工

  5. 1878(明治11)年
  6.  日本人自らの手で、京都・大津間着工。

  7. 1880(明治13)年
  8.  同じ編成で長浜一敦賀間の工事に桃んだ。

  9. 1880(明治13)年〜1882(明治15)年
  10.  アメリカの指導のもと、アメリカの大学を卒業した、松本荘一郎を責任者とし、アメリカ人土木技師クロフォードの助言のもとに手宮起点として札幌まで開通した。

  11. 1882(明治15)年
  12.  東京から高崎に至る中山道の一部と東京から仙台を経て青森に至る区間が選ばれ、着工と           なり順次開業となった。

  13. 1885(明治18)年〜1886(明治19)年
  14.  沿線の開発を重視するのと、軍が防衛上の理由から東海道案に反対したため東京と京都を結ふ幹線の建設は、イギリス人ボイルの調査を基に中山道案が採用された。それによって武豊・熱田問、直江津・関山間が開通した。そして、この年、調査結果を基に経済比較をし東海道線を着工することになった。

  15. 1891(明治24)年
  16.  全線開通し、その後、常磐繰田端一岩沼閻が完成した。

  17. 1893(明治26)年
  18. 奥羽線着工、のち12年後完成。北陸線も同じ年に着工し、7年後富山から西が全通した。

  19. 1899(明治32)年
  20. 鹿児島線は、南方鹿児島から吉松を経て北上するようなかたちで着工された。軍部からの要請で、横須賀線がむすばれた。

  21. 1902(明治35)年
  22.  山陰線は、米子と阪鶴鉄道の和田山とを結ぶことになり着工された。

  23. 1906(明治39)年

幹線私鉄が買収され、統合されたので、全国が一体化された。その結果、この年以後羽越線、上越湶、熱海線(現在東海道線)、長輪線(現室蘭線〉、などの幹線をはじめ多くののローカル線が建設されるようになった。

 

3.主なトンネル工事

  1. 1870(明治3)年〜1871(明治4)年
  2.  ジョン・イングランドの指導で大阪・神戸間に石屋川トンネルが日本最初のトンネルとして完成された。このトンネル工事にあたって、大阪・神戸間は小河川が多かったので河底トンネルとなった。

  3. 1878(明治11)年〜1879(明治12)年
  4.  逢坂トンネル工事が井上勝の指導で国澤能長が担当し日本人のみで始まったが、地質は水分の多い微塵石であり掘削は良好とはいえなかったので、トンネル断面の一番上部の頂設部をまず堀り、逐次下部に掘り進む日本式掘削とベンチ式掘削で行われた。

  5. 1902(明治35)年
  6. 笹子トンネルが古川阪次郎の設計、監督のもと初めて自家水力発電気が利用され、坑内に電灯や電話が設備され、電気雷管の使用、ダンプカーと架空式電気機関車による運搬、20秒読みのトランシットによる三角測量など画期的技術が随所に見られる中開通した。そして、このトンネルは1931(昭和6)年清水トンネル完成まで、我が国最長のトンネルであった。

  7. 1936(昭和11)年〜1944(昭和19)年

本州と九州を鉄道で結ぶ構想は、明治末から検討され、橋梁かトンネルかと論議されていたが、軍事的に見てトンネル案が昭和になって決定された。すなわち、単線型トンネル2本、最急勾配は20/1,000、トンネル内は電気運転、施工法は通常の掘削法とするが地質によっては圧縮空気およびシールド工法と定めた。また、この工事で苦労した点は、海底における水頭40メートルの水圧による漏水防止で、それを克服するため、銅アーチ支保工に防水布を取り付け、コンクリートの水密性を持たせる配合にし、アーチ、側壁コンクリートの施工は、ジョイントからの漏水防止に特に留意し、覆工完成後、漏水防止のためトンネル1メートル当たり、3.2トンのセメントが注入された。

 

4.木の近代化を教えたファン・ドールン

近代化を急ぐ明治維新政府は、河海工事の指導技術者の派遣をオランダに求めた。ファン・トールンと工兵士官リンドウが来日したのが明治5年(1872)である。このころ官制の変革も薯しく、民部省土木司から、大蔵省にさらに翌明治6年には内務省土木寮が設けられ、ファン・ドールンは内務省長工師(技師長)として月500円で雇われることになった。ときに35歳であった。

リンドウは、ファン・ドールンをよく助け、主として利根川その他関東の諸河川の工事指導を担当した。また、信濃川の大河津分水工事の調査を行い、分水の河口に与える影響が大きすぎるとして、すでに始められていた工事を中止させたほか、荒川口隅田川)霊岸島に量水標を設けている。この略最低低潮面をA・P(Arakawa Pile)というが、後の地図の陸地の標高の基準となる東京湾中等潮位(T・P)の0点はA・P上1.1344mとなった。明治8年契約終了後は直ちに帰国した。

一方、ファン・ドールン(1837−1906)は、現在でも世界の最高水準を誇るデルフト工科大学の前身であるデルフト工科専門学校を出て、北海運河の工事を担当していたのを、日本政府の要請でリンドウとともに来日したものである。彼は、契約期間終了後も引き続き日本に滞在し、明治13年2月帰国するまで、日本の重要河川、港湾の修築計画や工事の多くを手がけた。

明治5年着任した彼が第一に託されたのは利根川、江戸川の改修計画であった。彼は日本の河川の実態をみて、「治水総論」を著し、政府に治水の指針を示した。彼の著した,治水要目−は「堤防略解」とともに、日本の技術者はこれを治水技術の教本としたのである。わが国の技術水準の低さに、自分達二人で短期間に技術移転を行うことができないと知った彼は、実務経験の豊かな多くの工師、工手(技能者のこと)の招請が必要なことを説いた。これにより、明治6年エッセル、チッセン、デレーケの三工師と、沈床工手ウィルがオランダから招かれた。ファン・ドールンの河川・築港等の計画は、利根川・江戸川・淀川・大堰川(京都)・大谷川(常陸)・信濃川・湊川(兵庫)・木曽川、また、野蒜(のびる)・三国・鳥取・函館・桑名等の築港、それに、隅田川の架橋、横浜の防波堤、北上、東名運河、水戸運河、吉田用水、印幡沼、東京湾運河、猪苗代湖の疎水等枚挙にいとまない。ファン・ドールンとそれに率いられたオランダ人お雇い技師は、日本の土木特に河海工学面での近代化に大きく寄与した。

その第一は、治水の哲学で、それはいわゆる低水工事といわれ、水割工を設け、流れを強め、河床を浚渫して、河積を大きくし、流水の疎通を図ろうとするものである。これは、徳川時代の河村瑞軒らの主張した工法と一致する。この利点は水深が深くなることから、水運に便利となる。しかし、洪水時に水割工によって探掘りされたり、背水が大きくなったりする。また、流量差が大きいわが国の場合、渇水時に水路に砂が堆積し、維持に多大の労力を要することもあり、必ずしも得策でない。明治後半、オランダ人技師の離日した後は河川による水運利用が少なくなったこととあいまって、洪水制御を主目的とする高水工事の方式となっていった。

第二の特徴は、オランダ式築提法である。これは、沈床といわれる植物の小枝を組み合わせたものを基礎に、土を固めた大堤防を築くことである。防波堤の基礎にもよく用いられた。この工法は、軟弱地盤上の低地に住むオランダ人がライン川・マース川および、北海の洪水、高潮に悩み続けてきた永年の経験を生かした知恵である。明治7年10月、デレーケ、ウィルらによって、大阪の網島地先の淀川で公開指導が行われた。闊葉樹の若枝を束ねて連柴とし、これを碁盤の目のように縦横に組み、この間に小枝をならべ、これを積み重ねてふとん状にし、これを所定の場所に曳航し、捨石を投下して、基礎となすものである。この沈床は、軟らかい地盤に喰い込み、長い間腐らず、重い本体を支えるというものである。その工法は、その後も長く日本の河海工事に用いられ、威力を発揮した。ファノ・ドールンの技術移転の特徴は利根川改修のとき、日本の技術者に対するつぎの言葉に現れている。「私は、今、諸君とともにこの河を治めようとしているが諸君が立派に自立して長く私の力にのみ頼ることのないよう希望する」と語った。また、安治川でわが国で初めての洋式浚渫船二機を使用したが、その導入に当たっては、自国の利にこだわらず、極めて公正な態度をつらぬいたともいわれる。

現在、ファン・ドールンの銅像を建て、その徳をしのぶ安積疎水は、明治11一年、彼によって実地踏査されている。これは、野蒜港とともに、初代内務卿大久保利通の東北振興の二大事業として推進されたものである。翌年着工し、明治15年に竣工したこの疎水は、猪苗代湖の水を安積平野に引き、古田の早害を除き、かつ新田を開いて、失業している士族を集め、産業を振興することをねらいとした。この事業は見事に成功し、安積三万石といわれた土地が、明治15年には二十万石に達していたといわれる。大久保利通の東北振興策として、一大貿易港湾の築港計画にも参画した。その港の位置を決めるため現地踏査を行ったファン・ドールンは、鳴瀬川河口の野蒜が最適として、ここに内港と外港を持つ野蒜築港計画を建策した。ここでも、オランダの運河網の構想が生かされている。また、内港は当時オランダの計画したニューアムステルダム(後のニューヨーク)のマンハッタン島とよくにている港湾の都市計画も含まれていた。そして、この建策は、大久保利通の承認を得て、予算68万余円をもって、北上運河閘門工事から始められた。しかし、この年大久保利通は、巨大な土木事業を次々と興こし、血税を無駄にする国賊として、東京紀尾井坂にて暗殺された。そのあと内務卿となった伊藤博文も、この事業を推進し、利通の夢を実現させようとした。ふぁん・ドールン以下オランダ技術陣も、これに応えてよくつくしたが・明治13年ファン・ドールンは、工事半ばにして、突如帰国した。あとは、工手アルンスト、ウイル・マイトレクトが残ったが、日本人の中には、工事の成功をいぶかるものも多かった。ともかく、野蒜築港の第一期工事は、明治14年に完成し、倉庫・商館・旅館、料理店など200軒をならべて新興都市を形成した。しかし、2年後、思わぬ大惨事が起こった。台風のため、東側突堤の大半が一瞬にして決壊した。原因は、台風時の波力の見積が低かったとも、あるいは工事に用いた稲井石が軟岩で重量が足らなかったともいわれている。ようやく港の将来に希望を持ち始めた地元民を中心に、復旧と、さらに潜ケ浦外港の着工を願うものも多かったが、結局政府は、これを放棄した。こうして、明治15年には485万余円に達した野蒜の貿易額も、21年には、遂に統計調査の対象から消えてしまったのである。野蒜は、またもとの原野に戻り、松林に覆われてしまった。今では、北上川から阿武隈川に至る運河と、煉瓦の橋脚、閘門、そして二条の突堤の残がいが、往時の壮大な工事を伝えるだけである。

ファン・ドールンが、突如帰国した理由については、いろいろと取り沙汰された。信頼する大久保利通の暗殺とも、また次第に力を伸ばしてきたイギリス技術陣の圧力に、将来の不安を感じたともいわれている。終生独身でとおしたファン・ドールンは、明治39年(1906)69歳の生涯を、アムステルダムで閉じた。

ファン・ドールンが指導した工事には、成功したものもあれば、失敗したものもある。しかし、異国に捧げた真心と情熱、そして近代科学に根ざした河海工学の学理と技術が、日本土木工学の礎となったことは確かである。

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