これらの街道の渡河地点の多くは、浅瀬か、舟による「渡し」であり、橋が架けられても、多くは丸木橋であったと考えられます。 しかし、これらの橋も洪水が来れば流されることが多く、旅は「苦行の連続であった」と言われています。 人や物資の輸送は、舟運によることが多く、江戸時代には川港が発達し、白鳥から美濃市の上有知湊(こうづちみなと)や、岐阜湊へ、さらに桑名湊を通じて、江戸や大阪と交通していきました。
明治14年(1861年)12月調査の、岐阜県統計表に挙げられている橋梁数は24橋で、長良川には明七橋(長良橋)と河渡橋の2橋であり、武儀川5橋(中3橋は夏期渡船)、
津保川6橋(中5橋は夏期渡船)でした。24橋の中の、半分は人道橋で、荷車は通れませんでした。
昭和14年(1939年)から始まった「忠節橋」架け替え工事は、昭和18年下部工の工事が完成しました。不幸にも上部工工事は資材不足と戦争のために中止されました。
戦争中には、新橋下部工を使った木橋改築工事が進められましたが、戦災と洪水のため完成せず、大変な苦労で、旧トラス橋を維持補修して、やっと通行が確保されました。
さらに、社会が「ゆとりとうるおい」を求める時代となって、橋梁景観も時代の感覚を取り入れた、美しい形が求められるようになりました。今日では、橋梁景観の向上のために、コンピューター・グラフィックが利用されています。
明治・大正時代の橋
明治時代に入ると、「富国強兵」「殖産興業」政策が取られて、道路整備が少しずつ行われるようになりました。
岐阜県は「飛山濃水」と言われる地形で、山岳地では、開発道路が優先されましたが、平野部では、治水堤防が優先されて、
交通は舟運か、渡し舟によっていました。
昭和前期時代(1926〜1945年)の橋
日本の橋梁技術は、欧米の技術を学んで、産業技術の発展と共に進んできました。
大正12年(1923年)に起こった、関東大震災により、東京付近の橋梁も大きな被害を受けましたが、これを機会に欧米の橋梁技術を大幅に取り入れ、鋼やコンクリートの橋梁が架設されました。
そして、それらの橋梁技術は、昭和に入って地方へと伝播していきました。
また濃尾平野の河川整備工事も、明治末大略の改築が終わり、社会や産業の発展のためには、道路や橋梁の整備が必要なことが認識されるようになりました。
これにより、下渡橋、下田橋、長良大橋等次々と架橋されました。
昭和後期時代(1945〜1989年)の橋
昭和20年(1945年)の終戦後、「戦災復興」と「文化国家の建設」の基本方針に基づき、道路建設が最重点項目として取り上げられ、道路整備は大いに進みました。
昭和33年からは、道路公団の名神高速道路の建設が始まり、岐阜県は東西交通の要衡として、工場の進出や産業の発展が進み、自動車交通も急激に増大しました。
橋梁技術も次々と新構造が開発され、合成鋼板桁、鋼箱桁、ランガー桁、ローゼ桁、斜張橋等の鋼橋と共に、コンクリート橋梁として、PC桁(プレテンション方式およびポストテンション方式)の工法が発展し、片持張出工法のディビダーグ工法も施工されました。
平成時代の橋
昭和後期から平成時代に入ると、「自動車交通戦争」と言われる時代になりました。
「戸口から戸口」へと交通の便利が良いので生活の必需品となり、自動車交通量が増大し、交通事故や交通渋滞が増えてきました。これらに対応して、交通計画として道路のネットワーク化が必要となり、バイパス道路や橋梁の新設、立体交差化、高架橋新設などの新しい道路事業が意欲的に進められています。
橋の設計も、コンピューターの大幅な導入により、より複雑な構造が精度良く解析できるようになりました。