1、ジェイコブズ・クリーク橋とジェームズ・フィンレイ
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ルネッサンスから大航海時代と、東西交流がかなり活発になってから、はじ
めて吊橋は東方から伝えられるようになり、そしてそれが現実に西欧社会の中
に根をおろすのは、19世紀に入ってからのことである。 |
2、ブリタニア鉄道橋とロバート・スティーブンソン
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まだまだ不安定だった吊橋を信頼のおける構造物として何とかして利用しよう
という試みは、19世紀前半の橋梁技師たちの大きな課題のひとつだった。
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3、ナイアガラ鉄道橋とジョン・ローブリング
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ロバート・スティーブンソンが逃した、「世界初の鉄道吊橋」を架けたのは、
アメリカのジョン・オーギュタス・ローブリングだった。ローブリングはドイ
ツに生まれ、技術専門学校を卒業した後、25歳の時アメリカへ移民として渡
ってきた。1831年のことである。移民後、ロープ工場を設立したローブリ
ングは、やがて吊橋の建設に進出。1855年、世界初の鉄道吊橋であるナイ
アガラ鉄道橋を架けたほか、死ぬまでの数年間はニューヨークのシンボルにな
っているブルックリン橋の建設に携わった。
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4、ブルックリン橋とジョン・ローブリングの後を受け継いだ息子、ワシントン・ローブリング
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ジョン・ローブリングはワイヤーロープと平行線ケーブルの考案、そして本格
的補剛トラスの採用と、吊橋の技術を発展させてきた。そのローブリングの最
大の傑作となったのが、ニューヨークのイーストリバーに架かるブルックリン
橋である。マンハッタン島とブルックリン地区を結ぶ橋については、19世紀
初頭からその可能性が検討されていた。フェリーは天候に左右され、よく欠航
していたからである。19世紀半ばまでは技術的に夢のまた夢と思われていた
橋だったが、ナイアガラ渓谷に鉄道吊橋を成功させたローブリングが、185
7年に「十分可能である」との手紙をニューヨーク市議会議員に送ったのがき
っかけで、計画が具体的になった。10年後の1867年、資金面でめどが立
つと、ニューヨーク架橋公社は主任技師にローブリングを指名、いよいよブル
ックリン橋は建設に向けて動き始めた。
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5、弾性理論の欠点とレオン・モイセイフのたわみ理論
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1901年の夏、ブルックリン橋のハンガー(ケーブルから吊り下げて桁を
支える部分)の何本かが次々に切断するという事故が発生した。その原因の調
査と対策に当たったのが、レオン・モイセイフという一人の技師であった。当
時はメラン教授が打ち出した弾性理論が近代吊橋理論として確立された頃であ
り、それだけにブルックリン橋の事故の究明もメランの弾性理論に準拠して行
われたのである。ところが調査を進めていくうちに、モイセイフは、どうも実
際の吊橋の動き方が弾性理論から導き出される計算値と異なっていることに気
づいた。橋に列車や馬車などの荷重がかかれば、橋桁は少しだが下方へたわむ。
ブルックリン橋の場合、実際のたわみ幅が、予想よりかなり小さかったのであ
る。
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6、マンハッタン橋
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たわみ理論によって架けられた最初の記念すべき橋は、ブルックリン橋のす ぐ隣にあるマンハッタン橋である。1909年に完成したこの橋は、スパンの 中ほどに荷重がかかったとき、両方の主塔が内側にたわむように造られている 点など、設計上、石積みで全く主塔が動かないブルックリン橋とは一線を画す 橋である。しかし、並んで架かるブルックリン橋と、比較してみても、それほ どスリムになったようには思えない。たわみ理論で架けた橋とはいえ、重厚な トラス構造で橋桁が補剛されていて、いかにも頑丈そうに見えるからだ。 |
7、ジョージワシントン橋
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1931年に完成したニューヨーク・ハドソン川のジョージ・ワシントン橋。
スパンはブルックリン橋に比べ、一挙に二倍近くも延びて、世界で初めてスパ
ン1000mを超えたこの橋は、ブルックリン橋やマンハッタン橋に比べると
格段にスリムになっている。特に橋桁は、「無補剛桁(補剛されていない桁)」
ともいわれる薄っぺらな形で、ブルックリン橋に採用された重厚なトラス構造
は跡形もなく消えてしまった。設計に携わったオスマール・アンマンは、後に
こう述べている。「この橋がほかの吊橋と大きく異なるのは、補剛トラスを省
略したことです。橋床の重さは、橋を通る交通の重さの5倍にもなり、ケーブ
ルも極めて重い。だから、補剛トラスなしでも吊橋に必要な剛性は十分に得ら
れるのです。結果的にこの橋は、大変軽快なものになりました。補剛トラスの
省略で、マンハッタン橋などと比較しても1000万ドル余りも経済的になっ
ています。」
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8、タコマ・ナロウズ橋のアクシデント
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1937年、モイセイフがワシントン州の要請で設計したタコマ・ナローズ
橋は“華奢な橋”の最たるものだった。設計図によれば、橋桁は「プレート・
ガーダー」と呼ばれるH形の構造で、片側一車線を通行する自動車の重量に耐
えるだけの強度しか持っていなかった。当時世界第三位の長さだったスパン8
53mのタコマ橋は、「たわみ理論」のメリットが最大限に生かされ、厳密な
計算で求めた最小限の数値で設計がされた。架橋技術の最先端をいくタコマ橋
は、悲劇に向けて第一歩を踏み出したのである。
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9、流線型箱桁・セバーン橋
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旧タコマ橋の落橋事故後に設計された吊橋のほとんどは、トラス型の橋桁を
採用している。トラスは隙間が多いため、風が吹き抜けやすく、しかも剛性を
高めるのに都合のいい形だったからだ。しかし1966年、こうしたトラス主
流の流れに大きな変化を与える吊橋が登場した。イギリス南部の都市、ブリス
トルの近くに架けられた「セバーン橋」である。セバーン橋のスパンは988
mで1000mに足りず、当時長大橋の建設をリードしていたアメリカの吊橋
と比べて、それほど長いとはいえない。しかし、その橋桁の形状は、それまで
の長大橋とは明らかに一線を画していた。
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10、ハンバー橋
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ハンバー橋は、中央径間が1,410mであり、これまで世界最長だったアメリカの
Verrazano Narrows橋より112mも長い世界一の吊橋となった。
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11、セバーン橋の悲劇
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この世紀の技術革新であると、イギリスの技術者たちが誇ったセバーン吊橋
にも、実は意外な泣き所があった。それは斜めハンガーの振れが、すこぶる激
しいことである。鉛直ハンガーではみられなかった現象で、直ちに制振装置が
取り付けられたりして対策が施されたが、ついに事態はそのような小手先の対
策ではおさまらなくなってしまった。そして、”イギリスで橋のケーブルが破
断”といったようなニュースが1982年の春頃から頻出することになった。
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