現代吊橋までの歴史

1、ジェイコブズ・クリーク橋とジェームズ・フィンレイ

 ルネッサンスから大航海時代と、東西交流がかなり活発になってから、はじ めて吊橋は東方から伝えられるようになり、そしてそれが現実に西欧社会の中 に根をおろすのは、19世紀に入ってからのことである。
 1801年に近代吊橋としては初めての橋を、ジェイコブズ・クリーク上に 架けられた。(支間21m,幅3.8m,50 年間の保証つき,契約金額60ドル)
 構造的にみて、軽く、丈夫で、耐用年数も長く、架設が楽で、しかも補修に 際しては部材の交換も容易な工法だということに考え至った。
 新大陸アメリカのジェームス・フィンレイが、それまでは人が渡るのも精一 杯という有様であった原始的吊橋に対して、

 ・主ケーブルを橋床から分離して2本にまとめ

 ・そのケーブルから等間隔に吊材を下げ

 ・吊材を介して橋床部を吊る

といったような、幾つかの画期的な工夫をこらした。

 主ケーブルから橋床を分離したことによって路面をフラットなものとするこ とができ、しかも吊材を介して吊り下げた桁を一体としてトラス状に組むこと によって、橋床にかかる集中荷重は隣接する吊材に広く分配されることになっ た。その結果過度なたわみは抑えられることになってはじめて馬車や車を通す ことのできる、近代吊橋とよぶにふさわしいものが誕生をみたのである。
 フィンレイの吊橋は、その後10年あまりの間に40数橋が架けられたとい うから、アメリカではかなりの評価をうけ、ちょっとしたブームにもなったと 考えられるが、しかし事故があいつぐことにより、それも長続きはしなかった。  フィンレイが投じた一石は、池の面を走るさざ波のように、直ちにイギリス からヨーロッパ大陸(中心はフランス)へと伝えられ、その後1840年代に 入って、再びアメリカへ戻ってくることになる。
 この間にフィンレイ流のチェーン・ケーブルは、イギリスではサミュエル・ ブラウンによって、より丈夫なアイバー・チェーンとなり、さらにフランスで はセガン兄弟の手によって以後の吊橋での主流となるワイヤー・ケーブルにと ってかわられた(今日の長大吊橋で使用されているケーブルの空中架設法やプ レハブストランド工法の源流も、この1830年代前後のヨーロッパ大陸にお いて見出すことができる)。


2、ブリタニア鉄道橋とロバート・スティーブンソン

  まだまだ不安定だった吊橋を信頼のおける構造物として何とかして利用しよう という試みは、19世紀前半の橋梁技師たちの大きな課題のひとつだった。
 1845年、当時のイギリスを代表する技師、ロバート・スティーブンソン (蒸気機関車の発明者として有名なジョージ・スティーブンソンの息子)は、 メナイ海峡に世界初の鉄道吊橋、ブリタニア橋を架けようとしていた。海峡の 真ん中にある浅瀬を利用しても140mのスパンが必要だった。当初、スティ ーブンソンは四角いトンネルのような錬鉄製の橋桁を造り、それを同じく錬鉄 製のチェーンケーブルで吊る構造を考えていた。橋桁だけだと強度が足りず、 列車が通った際に橋桁が折れ曲がってしまう危険性があると予想したからであ る。1846年から建設が始まった橋脚は、ケーブルを通すために高く造られ、 上部にはケーブルを通す穴も開けられた。一方でスティーブンソンは、橋桁に どの程度の強度を持たせるべきかを決めるため、橋桁の試作品に荷重をかけて 何トンまで耐えられるかを調べる実験も行っていた。しかし、実験を繰り返す うちに、ケーブルで支えなくても十分、安全に列車が通れる「強い橋桁」を造 ることが可能だという結論に達してしまう。結局、彼は、吊橋用の橋脚まで建 てながら、吊橋案を放棄してしまったのである。
 ブリタニア橋は、錬鉄製の箱型の橋桁を採用したという点で世界初の試みで あり、列車が通ってもびくともしないその頑丈さは、当時のイギリスの技術力 の高さを示すといわれている。それにスティーブンソンは、決して橋の建設に 失敗したわけではなく、ブリタニア橋がすばらしい橋であることに変わりはな い。しかし、もし吊橋型式にしていたら、「世界初の安全な鉄道吊橋」という、 また別の付加価値も持ったかもしれない。
 完成したのは1850年。列車の通る橋桁が四角い箱型の桁でできていて、 渡るとまるでトンネルをくぐっているようだったため、「チューブラーブリッ ジ(トンネルのような橋)」というニックネームで呼ばれていた。残念ながら 1970年に火事で焼け、アーチ橋に造り替えられてしまったため、今、行っ ても完成当時の姿を見ることはできない。当時と変わらないのは、焼け残った 石造りの橋脚だけである。


3、ナイアガラ鉄道橋とジョン・ローブリング

  ロバート・スティーブンソンが逃した、「世界初の鉄道吊橋」を架けたのは、 アメリカのジョン・オーギュタス・ローブリングだった。ローブリングはドイ ツに生まれ、技術専門学校を卒業した後、25歳の時アメリカへ移民として渡 ってきた。1831年のことである。移民後、ロープ工場を設立したローブリ ングは、やがて吊橋の建設に進出。1855年、世界初の鉄道吊橋であるナイ アガラ鉄道橋を架けたほか、死ぬまでの数年間はニューヨークのシンボルにな っているブルックリン橋の建設に携わった。
 1851年、ローブリングにとって、のるかそるかの機会が訪れた。以前か ら計画のあったナイアガラ渓谷への吊橋建設を受注したのである。アメリカと カナダの国境となっているナイアガラ渓谷に鉄道橋が架かれば、カナダ東南部 の大都市トロントとニューヨークが結ばれる。その経済効果はかなりのものだ と予想されていた。しかし問題は、244mというスパンに400トン近い重 さがある列車を安全に通さなければならないということだった。
 吊橋はそもそも、極めてたわみやすい構造物である。そこに重い列車を通す ことの難しさについては、イギリスの代表的エンジニア、ロバート・スティー ブンソンも経験済みである。しかし、ローブリングは吊橋の宿命でもある「たわ みやすさ」を、がっちり組み上げたトラス構造(補剛トラス)の上に橋桁を載 せることで解決した。しかも、このトラスという構造は、吊り橋のもう一つの 大敵であった風に対しても十分な抵抗力を持っていた。それにより、ローブリ ングはブリタニア鉄道橋より100m長い244mのスパンでやり遂げること を試みた。ローブリングはナイアガラへの鉄道吊橋建設によって、にわかに世 界の土木技師たちの注目を集めることになった。
 工事は順調に進み、1854年の夏にはケーブルの架設を終え、橋桁の取 付に入った。そして翌年の3月、多くのエンジニアが不可能ではないかと考え ていたナイアガラ渓谷の鉄道吊橋は完成した。


4、ブルックリン橋とジョン・ローブリングの後を受け継いだ息子、ワシントン・ローブリング

  ジョン・ローブリングはワイヤーロープと平行線ケーブルの考案、そして本格 的補剛トラスの採用と、吊橋の技術を発展させてきた。そのローブリングの最 大の傑作となったのが、ニューヨークのイーストリバーに架かるブルックリン 橋である。マンハッタン島とブルックリン地区を結ぶ橋については、19世紀 初頭からその可能性が検討されていた。フェリーは天候に左右され、よく欠航 していたからである。19世紀半ばまでは技術的に夢のまた夢と思われていた 橋だったが、ナイアガラ渓谷に鉄道吊橋を成功させたローブリングが、185 7年に「十分可能である」との手紙をニューヨーク市議会議員に送ったのがき っかけで、計画が具体的になった。10年後の1867年、資金面でめどが立 つと、ニューヨーク架橋公社は主任技師にローブリングを指名、いよいよブル ックリン橋は建設に向けて動き始めた。
 ブルックリン橋最大の特徴は、世界で初めて鋼鉄製のワイヤケーブルが採用 されたことである。ブルックリン橋の鋼鉄製ケーブルは、1平方ミリメートル 当たり112キログラムの重さに耐える。1平方ミリメートル当たり70キロ グラムしか耐えられない錬鉄製のワイヤは、ブルックリン橋以降、用いられる ことはなくなった。また、ブルックリン橋では、潮風にさらされても大丈夫な ように、1本1本のワイヤに亜鉛メッキという手法も吊橋の標準になった。
 一方、補剛トラスについては、風に対する抵抗力という視点から深く考察さ れていた。「私はこれまで不用意に設計された吊橋が、風の危険にさらされて いることをよく知っているつもりです。しかし、私の設計した吊橋はこれまで のものとは違います。激しい風が吹いて橋が上下、左右に揺れても耐えられる よう、私は橋桁部分にトラス構造を6枚、平行に取り付けることにしました。 いかなる場合でも安全で、最も効果的な構造となったと信じています。もし、 資金が足りないからといって吊橋の経済性のみを追求すると、剛性が犠牲にな り構造的に弱くなります。たしかに剛性を落とせば、材料も工費もかなり節約 できるでしょうが、風に対する抵抗力も失われてしまうでしょう。」
 このナイアガラ鉄道橋完成時のローブリングの報告書は、専門家によって慎 重に吟味された。また、委員たちはその現場にも出向いて橋を検分したりもし ている。委員会が最終的に出した結論は次のようなものだった。「ローブリン グ氏のプランには何ら不安な点はない。構造上の強度、耐久性についても条件 を十二分に満足していることは疑いない。」
 しかし、ブルックリン橋の基本的な設計を終え、実際の工事に取りかかるた めの測量に立ち会っていたローブリングは、思わぬ事故に巻き込まれ、致命傷 を負ってしまう。マンハッタン島からブルックリン側にやって来たフェリーが、 ローブリングのいた桟橋に着いたとき、かなりのショックがあったらしい。こ のショックで、材木の山が崩れ、ローブリングの足を押しつぶした。足の切断 手術を拒否し、傷を水で洗うだけの手当しか許さなかったローブリングは破傷 風を併発し、事故から16日後、63歳でその生涯を終えた。1869年7月 29日のことだった。
 ブルックリン橋の設計者、ジョン・ローブリングの後を引き継いで新たにブ ルックリン橋の主任技師に就任したのは、そのとき32歳だった息子のワシン トン・ローブリングだった。ワシントンは、ブルックリン橋の計画に当初から 参加していただけでなく、父の命を受けて吊橋建設の新技術を学びにヨーロッ パへ留学もしていた。後任としてうってつけということで任命されたのだ。  1872年の夏、工事に行ったワシントンは、潜水病にやられてしまい、2 度と現場に戻ることができなくなったのだが、夫人であるエミりーの手助けも あって1883年5月、ブルックリン橋が完成した。


5、弾性理論の欠点とレオン・モイセイフのたわみ理論

 1901年の夏、ブルックリン橋のハンガー(ケーブルから吊り下げて桁を 支える部分)の何本かが次々に切断するという事故が発生した。その原因の調 査と対策に当たったのが、レオン・モイセイフという一人の技師であった。当 時はメラン教授が打ち出した弾性理論が近代吊橋理論として確立された頃であ り、それだけにブルックリン橋の事故の究明もメランの弾性理論に準拠して行 われたのである。ところが調査を進めていくうちに、モイセイフは、どうも実 際の吊橋の動き方が弾性理論から導き出される計算値と異なっていることに気 づいた。橋に列車や馬車などの荷重がかかれば、橋桁は少しだが下方へたわむ。 ブルックリン橋の場合、実際のたわみ幅が、予想よりかなり小さかったのであ る。
 吊橋を設計するときに重要なポイントの一つは、橋桁にどの程度の強度を持 たせるか、ということだ。単純な橋桁(単に板を渡しただけの橋)を考えた場 合、桁は桁自身の重さ(死荷重)を自ら支えなければならない。それなりの強 度が必要なのである。これが吊橋になると、ケーブルが桁の重さをすべて肩代 わりしてくれるため、桁自体には力がかからなくなる。吊橋が長いスパンを跳 ばせるのはこのためだ。しかし、桁に力がかからないというのは列車や自動車 など(活荷重)が載らない場合で、完成後は列車などの重さがかかってくる。 弾性理論では、この活荷重を桁で相当部分支えなければならないと考えていた。 つまり、ケーブルがたわまないと仮定していたのである。しかし、実際には桁 がたわめば、それに合わせてケーブルもたわむ。たわんだケーブルは元に戻ろ うとするから、そのときに桁を持ち上げようとする。つまり、ケ−ブルがたわ むことによって、桁に作用する力が大幅に軽減されることがわかったのだ。
 そしてブルックリン橋くらいの規模の吊橋となると、もはやケーブルの変形 を無視した形では正しい値が得られないことも明らかになった。メラン教授が 煩雑すぎて使いものにならないと打ち捨ててあった『より精密な理論』が、こ うして日の目を見ることになったのである。モイセイフは、このことを明らか にしたうえで、吊橋にとってさらに大きな意味を持つ結論を導き出した。
 「吊橋は、その自重が重いほど、そして、荷重がかかったときのたわみ方が 大きければ大きいほど、橋桁に加わる力は相対的に小さくなる。もし、吊橋の スパンがブルックリン橋よりはるかに長ければ、橋桁を補強する必要はなくな る。」
 これは極めて画期的なことだった。これまで吊橋は、重い橋桁のせいで跳ば せるスパンに限界があった。ある程度長くしていくと、橋桁が重くなりすぎて ケーブルが持たなくなる。しかし、たわみ理論は、「吊橋は、長くなればもっ と橋桁を華奢にできる。そうすれば橋全体の重さも軽くなって、ケーブルも細 いものですむし、主塔もそれだけスリムにできる。」という、長い橋を架ける のに極めて都合のよい考えだったのである。
 モイセイフは、発表した論文の中で、この理論を「Deflection Theory(たわ み理論)」と名付けた。不完全な理論を経験によって補った設計から、より厳 密な数式と計算の裏付けのある設計へ。この理論によってモイセイフは、アメ リカを代表する橋梁エンジニアとして一世を風靡することになる。


6、マンハッタン橋

 たわみ理論によって架けられた最初の記念すべき橋は、ブルックリン橋のす ぐ隣にあるマンハッタン橋である。1909年に完成したこの橋は、スパンの 中ほどに荷重がかかったとき、両方の主塔が内側にたわむように造られている 点など、設計上、石積みで全く主塔が動かないブルックリン橋とは一線を画す 橋である。しかし、並んで架かるブルックリン橋と、比較してみても、それほ どスリムになったようには思えない。たわみ理論で架けた橋とはいえ、重厚な トラス構造で橋桁が補剛されていて、いかにも頑丈そうに見えるからだ。


7、ジョージワシントン橋

 1931年に完成したニューヨーク・ハドソン川のジョージ・ワシントン橋。 スパンはブルックリン橋に比べ、一挙に二倍近くも延びて、世界で初めてスパ ン1000mを超えたこの橋は、ブルックリン橋やマンハッタン橋に比べると 格段にスリムになっている。特に橋桁は、「無補剛桁(補剛されていない桁)」 ともいわれる薄っぺらな形で、ブルックリン橋に採用された重厚なトラス構造 は跡形もなく消えてしまった。設計に携わったオスマール・アンマンは、後に こう述べている。「この橋がほかの吊橋と大きく異なるのは、補剛トラスを省 略したことです。橋床の重さは、橋を通る交通の重さの5倍にもなり、ケーブ ルも極めて重い。だから、補剛トラスなしでも吊橋に必要な剛性は十分に得ら れるのです。結果的にこの橋は、大変軽快なものになりました。補剛トラスの 省略で、マンハッタン橋などと比較しても1000万ドル余りも経済的になっ ています。」
 ジョージ・ワシントン橋は、たわみ理論を持ってすれば、いかに経済的に吊 橋を架けられるかを実証して見せた。モイセイフのたわみ理論は、まさしく時 代の要請に合致する理論として確立したのである。


8、タコマ・ナロウズ橋のアクシデント

 1937年、モイセイフがワシントン州の要請で設計したタコマ・ナローズ 橋は“華奢な橋”の最たるものだった。設計図によれば、橋桁は「プレート・ ガーダー」と呼ばれるH形の構造で、片側一車線を通行する自動車の重量に耐 えるだけの強度しか持っていなかった。当時世界第三位の長さだったスパン8 53mのタコマ橋は、「たわみ理論」のメリットが最大限に生かされ、厳密な 計算で求めた最小限の数値で設計がされた。架橋技術の最先端をいくタコマ橋 は、悲劇に向けて第一歩を踏み出したのである。
 建設工事が進み、橋桁が取り付けられると、タコマ橋は早くも風で揺れ始め、 竣工してからも揺れは収まらなかった。
 そして、事故は1940年に起きた。風速19m足らずの風でタコマ橋は大 きく揺れ始め、正午近くに落橋に至った。振動によって橋桁に限界を超える力 が加わり、破壊されてしまったのである。この事故の原因は、橋桁の風による 振動と風の渦のでき方が相まって、橋桁のねじれ運動を加速していく「発散振動」 と呼ばれる現象が起きたことだと考えられた。しかも、さらに二つのミスを犯 していた。それは、ぺらぺらの橋桁だったため、剛性が不足して橋桁が極めて たわみやすくねじれやすかったことと、橋桁の形が空気力学的に不安定だった ことである。
 モイセイフは、タコマ橋を風速53mの風が吹いても耐えられるように設計し ていた。ただこれは、横風によって橋に加わる「荷重(静的荷重)」に対して は十分配慮され、暴風が吹き荒れても橋が壊れないように設計されていただけ のことだった。風が作り出す渦によって橋桁が動かされ、動かされることによ って新たな渦を発生させる。この複雑な風のメカニズム(風の動的作用)は、 全く考慮されていなかったのである。


9、流線型箱桁・セバーン橋

 旧タコマ橋の落橋事故後に設計された吊橋のほとんどは、トラス型の橋桁を 採用している。トラスは隙間が多いため、風が吹き抜けやすく、しかも剛性を 高めるのに都合のいい形だったからだ。しかし1966年、こうしたトラス主 流の流れに大きな変化を与える吊橋が登場した。イギリス南部の都市、ブリス トルの近くに架けられた「セバーン橋」である。セバーン橋のスパンは988 mで1000mに足りず、当時長大橋の建設をリードしていたアメリカの吊橋 と比べて、それほど長いとはいえない。しかし、その橋桁の形状は、それまで の長大橋とは明らかに一線を画していた。
 セバーン橋の橋桁は、まるで飛行機の翼のような流線型をしている。流線型 の内側は中空で、閉じた空間になっている。このことから、「箱桁(ボックス ・ガーダー)」と呼ばれるようになった。箱桁では、風が箱桁の周りであまり 乱れることなくスムーズに流れるため、トラス型の箱桁に比べて風による荷重 が少ない。しかもタコマ橋のような発散振動も起こしにくいのだ。
 セバーン橋は当初、トラス型の橋桁で設計されたという。しかし、トラスに こだわらなくても、発散振動を起こしにくい橋桁が可能なのではないかと考え たエンジニアが、風洞実験を繰り返す過程でたどり着いたのが箱桁だった。箱 桁はまさしく風洞実験が生んだ空気力学の成果だったのである。
 箱型の橋桁には、このほかにも多くのメリットがあった。橋桁が細く、軽く できているため、トラスに比べてかなり経済的に建設することができる点。さ らに、単純な構造をしているため、橋桁の塗装の塗り替えなどのメンテナンス がトラスより楽な点。こうしたメリットと相まって、世界の長大橋設計の流れ はセバーン橋の登場以降、大きく変わっていく。


10、ハンバー橋

 ハンバー橋は、中央径間が1,410mであり、これまで世界最長だったアメリカの Verrazano Narrows橋より112mも長い世界一の吊橋となった。
 1981年6月に開通し、斜めハンガーと翼形断面箱桁を用いたいわば英国式吊橋で世界一となり、この時期から吊橋の主流が、アメリカからイギリスに移り変わったといえる。


11、セバーン橋の悲劇

 この世紀の技術革新であると、イギリスの技術者たちが誇ったセバーン吊橋 にも、実は意外な泣き所があった。それは斜めハンガーの振れが、すこぶる激 しいことである。鉛直ハンガーではみられなかった現象で、直ちに制振装置が 取り付けられたりして対策が施されたが、ついに事態はそのような小手先の対 策ではおさまらなくなってしまった。そして、”イギリスで橋のケーブルが破 断”といったようなニュースが1982年の春頃から頻出することになった。
 斜めハンガーの欠陥をめぐって西ドイツの橋梁技術者、ホンベルク博士と、 フリーマン・フォックス社のパートナーの1人であるウエックス技師が論争を し、前者は、「斜めハンガーにはゼロから設計許容応力を50%も超過するレ ベルまでの、幅広い範囲の繰り返し応力が作用し、結果的に最大応力とその変 動幅に比例する材料的な疲労を早める。」と結論づけ、後者は、「交通量の激 増によるもの、すなわち、活荷重が設計時の予測を大幅に上回ったためであり、 その上さらに幾つかの不幸な条件が複合した結果である。」と反論した。しか し、どちらの意見も一面の真理を述べながらも決して満足させてくれるもので はなかった。
 この2人の争点で本質的に欠けていたものは吊橋の「自重」であり、それの 持つ意味、役割を忘れて2人は論争を展開していたのだった。「吊橋の経済性 のみを追求すると、構造的には弱い、剛度の低いものになってしまう。確かに 重量を減らし剛度を落とせば、材料も、工費も、大幅に違ってくるが、しかし 一方では、吊橋としての剛度は下がって・・・安全性も低下せざるを得ないで あろう。」と、100年以上も前に、いみじくもジョン・ローブリングが予言 していたとおりのことが、セバーン橋において起こったまでである。  今にして思えば、セバーン橋が世に出た時点で、橋梁技術者達は吊橋におい て「自重」が果たしてきた意味を忘れてしまった。そのうえ、このような軽い 吊橋を少しでも安定したものにしようと考えて、斜めハンガーなどを採用した がために、かえって事態を悪化させることになった。だがそれは「自重」の意 味を忘れさえしなければ、そして必要な「質量」を付加さえしておけば、斜め ハンガーなどを採用する必要はなかったことになる。


参考文献:「巨大建設の世界(長大橋への挑戦)」・・・NHK出版、「現代の吊橋」・・・編著:川田 忠樹


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