中国・長江の龍馬古城遺跡

古代都市文明支えた稲作

中国・長江上流の四川省成都市郊外にある「龍馬古城遺跡」が、この秋行われた日中共同の発掘調査で、5‐4千年前に巨大城壁をもった環濠(かんごう)都市であったことが判明した。「長江文明」の存在が下流域の良渚、中流域の石家河両遺跡に次いで上流域でも明らかにされたことになる。世界四大文明の一つ、黄河文明より千年も古く、都市文明の起源とされるメソポタミア文明などとはぼ同時期。しかも、世界4大文明がいずれも麦作文化だったのに対し「長江文明」は稲作文化を基盤にしていただけに、同じ稲作文化に生きるわれわれのロマンをかきたてる。その稲作古代都市の姿は。(編集委員・黒柱隆鼻)発掘調査を進めてきたのは日中共同の「長江文明学術調査団」(日本側総団長、梅原猛・国際日本文化研究センター顧問)。隊員の高橋学・立命館大助教授(環境考古学・注1)は、1ヶ月半の調査結果の概略を一枚の図をもとに説明する。「東側の城壁は既に成都市の調査で昨年、明らかにされていた。今回は西側の城壁が明らかになるなどして、この古城が面積60万平方mもあり、巨大城壁を持ち、その外に巨大な環濠がある環濠都市だったことも分かった」「城内は旧河道が幾本も流れていたことが発見され、当時、運河として利用されていたか、低温地として水田、少なくとも苗田があったのではないか。また、中央から少し南東に当時のものと思われる大きな柱穴もいくつか見つかっており、巨大神殿が建っていたのではないか。北と西に自然たい積の丘があり、そこを中心に集落があったと考えられる。今でも5つ集落があり、約5百人が住んでいるので、当時も相当一の人がいただろう」

5000年前の姿くっきり

長江流域では5千−4年前の遺跡として、下流域で良渚、中流域で石家河の両遺跡の存在が、近年の発堀で分かっている。総団長の梅原猛氏は「龍馬古城が分かると、他の二つと比較でき〃長江文明〃全体の解明が一層進む」と期待する。良渚遺跡の中心の「莫角山」遺跡は広さ30万平方m、高さ10m屈の人工台城など、巨大な構造物を持つ。また、石家河遺跡は南北1.2km、東西1kmと籠馬古城より一回り大きい城壁が、さらにその外に深く幅広い環濠があった。これらの構造物は多くの労働力の動員を必要とするし、両遺跡から出土する玉器(注2)には祭事用で支配者の権威を示すものがあり、神官や王がいたことがうかがわせる。龍馬古城遺跡からは玉器は出土していない。隊員の徐朝竜・国際日本文化研究センター助教授(中国考古学)は「まだ出土していないだけか、玉器を作る前の段階か。玉器文化に達する前に滅んだからだろう」と分析している。 長江流域の古代都市を支えたのが稲作文化。長江中流域の洞くつ遺跡で1万年の稲粒などが発見されており、中流域で発生した稲作が下流の河姆渡、羅家角両遺跡の7千年前の稲作文化として実った。良渚はその上に花開いた文化。上流の龍馬古城も稲作が波及、同じくそれを支えたのか。良渚、古家河が消えたころ、黄河中流域に中原王朝「夏」の都と思われる二里頭遺跡が出現する。徐助教授は「良渚の遺民が北上、夏を興した」との仮説を立てる。 世界の4大文明はいずれも麦作文化の上に成立しており、稲作は都市文明をつくらないと、これまでいわれてきた。しかし調査隊長の安田喜憲・日文研教授(環境考古学)は「稲作も都市文明をつくるとの仮説が証明されると、世界史の通説が覆る」と長江文明解明の意義を説く。さらに、安田教授は5千年前俊の寒冷期に人が集まり都市文明が成立したとの気候変動説を説いている。これがメソポタミアなどの乾燥地だけでなく長江流域の湿地でも当てはまるのか今後の解明が待たれる。

(注1) 環境考古学:花粉、昆虫、金属などの分析、炭素14代測定など自然科学的方法で当時の自然環境を復元する学問。

(注2) 玉器:中国でヒスイなどで作られた半宝石。古来、天子、諸侯の権威の象徴とされている。

「参考資料」:中日新聞平成8年11月9日


文責:事口壽男

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Revised 9 Oct. 1996