小野氏の「願興寺」跡を発見

奈良県天理市の廃寺

奈良県天理市和爾(わに)町の和爾廃寺を調査していた奈良県立橿原考古学研究所は10日、五重塔の基壇(土台)が見つかり、小野妹子ゆかりの古代有力氏族・小野氏の氏寺「願興寺(がんごうじ)」跡とみられる、と発表した。文献からこの付近に願興寺の存在が推定されていたが、発掘によって初めて証明された。白鳳時代(7世紀後半‐8世紀初頭)の寺院のあり方を知る上で貴重な資料となる。

5重塔基壇から断定

基壇は自然石を正方形に約70cmの幅で敷き詰め、その上に石を積み重ねる二重基壇で、上段の大きさは一辺が約12.7mの正方形。基壇上部は削られ元の高さは不明。形や大きさから五重塔の基壇と判断した。基壇の南北には南が幅約5m、北が幅約2mの石敷きの参道が見つかり、塔は南を正面にしていたことが分かった。
 基壇の周りからは塔を囲んでいた東西約34m、南北約32mのかわらぶきの築地塀の遺構が見つかり、塔は周囲の建物から区別するため塀で萌む塔院として建てられたことが分かった。基壇周辺からは藤原宮(694−710年)式のかわらが多数出土し、塔の築造は7世紀末から8世紀初頭と進定。基壇の北側の平たん地からはさらに古いかわらが出土しており、榛考研はここに金堂があり、7世紀後半に先に金堂が、続いて塔や築地塀が築造されたとみている。
廃寺一帯は古代氏族、和爾氏の子孫に当たり、遣隋使の小野妹子や書家の小野道風で知られる小野氏の拠点。願興寺は13世紀の文献「東大寺要録」によれば708年に小野中納言が建立したとされ、鎌倉時代の絵図には和爾廃寺の位置に草ぶきの仏堂一棟が願興寺として描かれていることから榛考研は和爾廃寺を小野氏の氏寺の願興寺跡の可能性がかなり高いとした。小野中納言は妹子の孫、小野毛野(けの)とする説が有力。榛考研では「飛自時代の寺院に多い自然石積みの基壇や奈良時代以降多くなる塔院を持っており、白鳳寺院としては特異で、貴重な研究資料となる」としている。

「参考資料」:中日新聞:平成9年4月11日


文責:事口壽男

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Revised 9 Oct. 1996