青森・三内丸山遺跡

縄文の定説覆す

縄文購代の巨大集落、青森市の三内丸山遺跡はその規模と、先進技術を秘めた大量の出土品から「小集団で細々と狩猟・採取生活する原始人」との縄文人のイメージを変えようとしている。これまでの調査で津き彫りになった北国の縄文集落の姿をまとめでみると‐

定住し社会を形成す

綿密な町づくり 約6ヘクタールの発掘で出土した建物跡は、竪穴式住居跡約480棟、掘っ立て柱建物跡約30棟。遺跡は約30ヘクタールの丘陵に広がっており、発掘が進めば建物数千棟を超す国内最大の縄文集落が現れる可能性がある。出土している土器は縄文前‐中期(約5千500‐4千500年前)のもので、千年もの間、定住していたとすれば「縄文人は獲物を追って移動していた」という定説を覆す。掘っ立て柱(直径80cm)を便った建物は「吉野ケ里遺跡(佐賀県・弥生時代)の物見やぐらを超える高さ20m」との説も出た。20mとすれは柱1本の重さは約15トン。八戸工業大の高島成侑教授(建築史)は「雪上を滑らせて運んだのでは。集団で大規模工事ができる成熟した社会があった」と推測する。 さらに、掘っ立で柱建物のほとんどは「正確に南北か東西に長い長方形」と判明。柱穴の間隔もぴったり4.2mか2.8mと、1.4mの倍数になっているものが多く、縄文人の綿密な「都市計画」がうかがえる。

プロの技術者 出土した最古級(約5千500年前、縄文前期)の漆塗りの本製鉢は、約2mmの厚さに精巧に加工してあり、表面の朱色は今も鮮やかで、縄文末期に匹敵する高度な技術という。土器などにも漆を塗ったものがあり、漆塗りは手なれた技術だったとみられる。首飾りなどに加工する前の、新潟産とみちれるヒスイの原石も出土した。ヒスイは硬く加工が難しいが、交易で得た原石を製品化する技術の存在を裏付けるものだ。弘前大の村越潔教授(考古学)は「漆器やヒスイ製品を作るブロの技術者がいる分業社会で、他の地域との技術交流があった」と分析する。

技術は先進的地域間交流も

海の民と農耕 遺跡で出る骨はシカ、イノシシなどより、魚や鯨が多い。縄文前期の最古級の舟のかいや鯨の骨製の刀、エイのとげ製の縫い針などの出土品から、海に依存した生活をしていたとみられる。「高さ20mの掘っ立て柱建物は日本最古の灯台」との説もある。今のところ農耕の形跡はないが、宮崎大の藤原宏志教授(地域農学)は「遺跡周辺で天然のヒエが繁殖している。縄文期に栽培しでいたなら日本最古級の農耕」と今後の調査に期待を寄せている。また、人が世話をしなければ育ちにくいヒコウタンの種も出土し「厳密な意味での農耕ではないが、自生した植物を管理し育てていた可蝕性は高い」と指摘する研究者もいる。

なぞの盛り土遺構 土器などの廃棄ブロックが3力所あり、出土品は段ボール箱数万個分。「他の縄文遺跡は多くて千箱程度」(発掘関係者)なので、けた外れの量だ。南西郡の廃棄ブロックは、高さ約2.5m、最大幅約70mの盛り土状になっている。「祭りや祈りの場」との見方があるが、正体はなぞだ。青森県埋蔵文化財調査センターの成田滋彦第四課長は、国内最大級(32cm)を含む少なくとも400個の板状土偶が出土したことに注目。「三内丸山道跡の周辺に衛星のように小集落があり、土偶などはそこから運び込まれたとも考えられる。三内丸山は祭事をつかさどる神聖な中核集落だった」と推理する。

縄文立つ

青森市の三内丸山遺跡に巨大木柱を使った大型掘立柱建物が完成し、見学者の目を引いている(写真2)。3層4階建てで、高さ14.7m。一昨年に見つかった6本のクリの木柱をもとに復元したもので、遺跡のシンポル的な存在となる。柱の下の土にかかった圧力の分析などから、もとの構造を推測して設計。クリ材はロシアから輸入した。用途や構造の詳細については、専門家の間でも議論が分かれている。

「参考資料」:日本経済新聞:平成7年8月17日
中日新聞:平成8年10月19日(写真1)
朝日新聞:平成8年11月11日(写真2と縄文立つ)


文責:事口壽男

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Revised 9 Oct. 1996