瀬田唐橋

「五月雨にかくれぬものや勢多の橋」・芭蕉

 瀬田川畔の四季の自然とともに古くから俳句や詩歌に読まれ、また、広重の浮世絵にも描かれ、近江八景の一つとしてもその名を知られる瀬田の唐橋は、京都の宇治橋、山崎橋 とともに日本の三名橋であり、その流麗な姿は、近江八景の一つ「瀬田の夕照」とともに広く世に知られている。 瀬田唐橋は「勢多橋」「大橋」「長橋」とも称され、日本史上最も署名な橋で、天武元年(672年)の壬申の乱の詑事に初見以来幾度となく文献に現れるが、いずれも歴史上重要な合戦に登場する。そして、この瀬田橋をうまく制した者が勝利して、時の政権を手中に しており、「瀬田橋を制する者は天下を制する」といわれるいる。  昭和63年6月未、建設省による瀬田川浚藻工事に先立ち、滋賀県教育委員会により、唐橋遺跡の発掘調査が行われた結果、縄文時代創世期(約1万1千年前)の石錐や日本最古の無文銀銭貨幣が出土した。また、水面下3.5mに、古代の瀬田橋の橋脚基礎構造物と見られる遺構が検出された。高さ2.3〜3m程度の橋脚と考えられる。

瀬田唐橋の変遷

 天智天皇6年(667年)の近江大津の宮への遷都時に、はじめて瀬田に橋が架けられたことが、壬申の乱(672年)をめぐる『日本書紀』の記述からも伺える。その後の瀬田橋の推移をみると『続日本紀』のなかに奈良時代の中頃の藤原恵美朝臣押勝(仲麻呂)の乱(764年)のとき、「勢多橋を焼く」の記述がある。さらに、都が長岡京へ、ついで平安京へ移される時、再び近江国に東海道が通り、瀬田橋が、都から近江国府を経て東国へ通じる官道の重要な位置を占めた。瀬田橋は、火災や地震により消失したりしながら、平安時代末から、戦国時代まで盛衰を繰り返し、現在のような姿に近づいたのは、織田信長と豊臣秀吉の時代であった。信長は天正3年(1575年)に長さ180間(約330m)、幅4間(約7m)の単橋をわずか90日間で架けさせており、その後、秀吉が上流の現在地に移し、中の島を利用した双橋に架け直したとされている。擬宝珠の銘から天正以後、江戸文久元年(1861年)に至るまで16回の架け替えが行われている。

現在の瀬田唐橋

 瀬田唐橋が初めて鉄の橋になったのは大正13年(1924年)6月の頃である。5本の鉄筋コンクリート柱の橋脚の上に長さ10.9mのI形の銅桁が並べられていた。この橋も戦後の交通量の増大と老朽化が進んだために昭和50年から54年にかけて架け替えがおこなわれた。河川条件を守りながらできるだけ木橋のイメージを出すために設計上の配慮がなされている。橋脚を5本の柱によって構成し、旧橋から引き継いだ擬宝珠付きの高欄、桁隠しなどが取りつけられている。形式は単純活荷重合成上路プレートガーダである


「参考文献」:名品揃物浮世絵 広重3、株)日本アートセンター、編集


文責:95C012 大角和也

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Revised 9 Oct. 1996