岡崎城と乙川

 「私の町の土木史」は、岡崎城と市内を流れる乙川、管生川について述べる。

岡崎城

 岡崎のシンボルであり、徳川家康の生誕の地でもある岡崎城は、1455年(康生元年)、室町時代中期に三河守護代、西郷稠頼によって、築城された。矢作(やはぎ)川と乙川(おとがわ)・(菅生川:すごうがわ)によってはさまれた龍頭山の丘の上に築かれたこの城は、「龍ヶ城」とも呼ばれ、その当時の城域は現在の岡崎公園程の広さであったといわれている。  岡崎城は西郷氏の居城であったが、松平氏が西郷氏の養子という形で、譲られ、松平氏の居城となっている。城主は、戦国時代に今川氏領国となって今川氏城代が10年治められた後は、代々徳川家(松平家)及びその重臣たちによって治められている。  岡崎城が現在のような形となったのは家康の居城としていた頃から、田中吉政の治めた頃ぐらいまでで、城域は現在の名鉄東岡崎駅あたりまで拡がったとされている。明治時代となると、岡崎城は用なしで、明治6年から7年にかけて、取り壊され、石垣、堀が残るばかりであったが、本丸、二の丸の地域は、城址公園として残された。  戦後、住民の要望で、昭和34年に天守閣が再建され、城址公園も岡崎公園となって、現在まで至る。平成7年12月20日に天守閣外壁の改修工事が終了したので現在はとてもきれいな岡崎城を見ることができる。


乙川(菅生川)

 乙川の川の流れが現在のようになったのは、室町時代からである。室町幕府管領畠山基国が六名堤を築いたことによる。六名堤は、現在の岡崎市六名町にあたる場所にある。乙川(菅生川)は矢作川の支流で、岡崎城は矢作川と乙川(菅生川)に挟まれた場所にあり、天然の堀として外的の侵入を防いでいた。  乙川は、江戸時代には岡崎城のすぐ近くまで船が入れることで、よく知られていた。「五万石でも岡崎さまは、お城下まで舟が着く」とよく言われていたそうである。菅生川は、昔は現在の乙川のことを指し、今は岡崎城西側の小さな堀割を指している。乙川も、菅生川も現在は近代的な護岸工事がなされ、何とも風情のない無機的な川となってしまっている。自分としては、「三面鏡」と言われる様な護岸ではなく、自然に近い形での護岸の方がよいと思っている。
                                   
「参考資料」
史跡散策「愛知の城」,山田柾之著
岡崎史跡と文化財めぐり,岡崎市発行
ニューエスト73愛知県区分地図, 昭文社

文責:95C014 大橋和雄

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Revised 9 Oct. 1996