JR武豊線

なぜ武豊線がつくられたのか

武豊線はそもそも、明治新政府が欧米の進んだ技術や文化を取り入れようとして行った、東京と京都を鉄道で結ぼうとした攻策から始まっている。明治五年(1872)、東京一横浜間に日本で最初の鉄道が完成した。これを契機に神戸から鉄道建設が始まり、開通区間は次第に東へ伸び、同13年までに神戸一大津間が開通した。こうした中で、政府は同16年に先の幹線の経路を高崎、甲府、飯田、大垣を通る中山道鉄道と決定した。この鉄道を建設するにあたり、資材の陸揚げ港として四日市港と武豊港が候補にあがり、明治17年5月、四日市一垂井間を資材の輸送路として着工の認可が出た。しかし、測量の結果が思わしくなく、井上鉄道局長は別のルート名古屋一半田線を求めた。明治18年1885)3月、井上鉄道局長は、資材輸送線として四日市線と半田線とを比較し、完成までに四日市線は工費が200万円、年数が2年かかるのに対して、工費が80万円、完成までに7〜8ケ月でできるという半田線の利点をあげ、同6月、認可された。その鉄道名は中山道支線半田線であった。この鉄道の建設は、明治18年に雇われたイギリス人技師ウイリアム・ピッツが測量を担当した。工事の総指揮は飯田俊徳が、直接の工事は木村患があたった。

武豊線ができて

当初は資材輸送線として設立された半田線(後に武豊線)だったが、井上鉄道局長の上申書によって、旅客輸送も可能となった。こうして、半田線は明治19年(1886)3月1日に武豊一熱田間で列車の運転が始まり、駅として、武豊のほかに半田、亀崎、緒川、大島が設けられた。開通時の運行は1日に2往復し、武豊一熱田間33.2kmの所用時間はl時間45分。運賃は31銭であった。鉄道設立に携わった人夫の賃金が1日4銭ということを考えれば、庶民にとって気やすく乗れる乗り物ではなかった(武豊線が出来た頃は大変客が少なく、1人もいない日があったが、10年ぐらいたってからだんだん増えてきた)。
 明治19年7月に、中山道の幹線決定を東海道へ変更する公布が出され、同22年〈1889)7月に東海道線が東京一神戸間で全線開通するのを機会に武豊大府間が東海道線の支線として武豊線と呼ばれるようになった。大正7年に武豊一河和・内海間を、大正10年には武豊一野間間にバスが走るようになり、武豊駅には南知多に行く人々で賑わい、駅前は町の中心になった。武豊線の開通は、東海道線建設の資材輸送が主な役割とはいえ、地元の産業振興に大きな役割を果たした。しかし、昭和7年(1932)に名鉄河和線が開通し、次第に武豊線を利用する人々は滅ってきた。河和線のほうが便利だったことや、河和口が海水浴場として人気を集めたこと。武豊線は河和線に比べて汽車の数も少なく、名古屋へ行くにも時間がかかったためである。
開通当時の運賃表 明治19年3月6日官報により作成。当時の米価が1升約5銭前後であったのに比ぺると、武豊線の運賃は高価であった。

武豊線と13号台風

武豊線武豊駅の前には、殉職した国鉄駅員の像がある。昭和28年(1953)9月25日、台風13号が知多半島を直撃。中心気圧915ミリバ一ル、最大風速60m。半径300km以内25m(24ひ午後6時現在)という大型台風だった。午後6時頃、武豊−東成岩間が高潮のためレールが流された。通りかかった関ケ原発武豊行下り列車は、闇の中で振られる発煙筒の信号で急停車し、東成岩駅へ戻った。乗客約100人は無事だったが、暴風雨と押し寄せる波の中で列車へ合図し、多くの乗客の命を救った武豊駅員高橋煕さんは、波にのまれ殉職した。
殉職国鉄職員の像 昭和29年9月25日、故高橋煕氏の功を称え、武豊駅前で胸像の除幕式が行なわれた。全国の国鉄織貝と小中学生の寄金58万円で建てられた。

100周年をむかえた武豊線

現在、武豊線は貨物の運搬はなくなり旅客専用に運行している。利用者は減ったものの、現在も人々の足として活躍している。昭和61年(1986)4月には武豊線は100周年を迎え、国鉄武豊線開通100周年記念行事が開催され、SLC56一世紀号がはしり人々をたのしませた。

参考文献
図説知多半島の歴史 下巻 高橋将人著



文責:96C028 桑代賢朗

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Revised 9 Oct. 1996