木曽三川の宝暦治水工事

長野、岐阜両県の山奥に発し、濃尾平野を流れ伊勢湾に注ぐ木曽、長良、揖斐の木曽三川は、「母なる川」と呼ばれる。木曽三川の水は、たやすく使えるわけでわない。前から使う権利を持った人々と、新たに必要とする人々の利害がぶつかり合う。それは、農村と都市、上減と下流、県と県の対立となり、ときに政治的な争いに発展することもある。木曽三川は、自然の宝庫である。魚が棲み、野鳥が訪れ、人々の心をなごまぜてくれる。だが、これらの川は、同時に流域の人々の生活を脅かしてきた。「輪中」をつくって自衛してきたものの、明治の近代改修で三川を分流するまでほ、しぱしぱ洪水に見舞われ、生命や財産を失った。水との戦いの歴史は長く、涙ぐましいのである。

宝暦の治水

水害の多発する木曽三川流域に対し、抜本的治水対策を意図した幕府ほ、宝暦3年(1753)12月25日、「御手伝普詰」の名をもって、木曽三川分流の治木工事(宝暦治水〉を外様大名の薩摩落に命じた。工事対象地域は実に、美濃6群141か村、尾張1群17か村、伊勢1群35か村、計193か村にわだり、延長約75キロ、幅約20キロに及ぶものであったが、薩摩藩は、宝暦4年〜5年の両年にわたりその難工事を完成した。その事案は、明治に至り三重県桑名群多度村(現桑名群多度町)の豪農西田喜兵衛等の尽力を通じ、明治33年(1900)4月、最も難工事であった油嶋繊締切工事一番猿尾耕地に「宝暦治水之碑Jが建立された。碑文は、治水工事の偉業と薩摩藩士の辛酸を後世に語りつぎ、碑裏面には80余名にのぼる薩摩義士の名をしるしている。江戸幕府の治水工事は、その負担によって、公儀普請、御手伝普講、国役普請、領主普請、百姓自普請があった。薩摩藩に課せられた木曽三川の治水工事は、御手伝普請である。御手伝いといっても、薩産薄がこの工事に責やした経費は約40万両といわれ、幕府の出費1万両に比して、たいへんな巨費であった。

油嶋締切工事 宝暦3年(1753)8月の洪水で崩壊しだ堤防の復旧工事、及び毎年春、地元で実施してきた修繕工事主体とし、木曽・長良,揖斐の三大川及び支川の水行をよくするための新規治水工事であった。油嶋締切堤は、木曽・掛斐二川が合流する油嶋新田地先より下流松ノ木村に至る約1,090間の間に木曽,揖斐の二川を二分する堤を築くことであった。木曽川の河床は、揖斐川より高く、そのため出水時には木曽川が揖斐川へ流入し、その沿岸に大きな被害をもたらしていた。工事は油鳴新田より550間、松ノ木村より200間を築堤し、その中間を舟運の便を考慮して明け置く形であった。中間明け置き部分が食い違い堰となるのは、明和3年〈1766〉以降である。

大博川洗堰工事 大博川洗堰工事は、河床の低い大博川へ流入する長良川の水勢を緩和することを意図したものである。安八群大藪村(現安八群論之内村〉と海西部勝村(現平田町勝村〉との間に98間、堰幅23間の洗堰を築造するものであった。 これら、両工事とも近世治水史上に残る大治水工事とされ、油嶋締切堤に植えられた日向松は、千本松として今なおその姿をとどめている。

宝暦治水の顕彰と薩摩義士の慰霊

治水工事の幕命を受けた薩摩藩主島津重俊年は、御勝手方家老織の平日靭負を総奉行に、大目付役伊集院十蔵を副奉行に任じて工事にあたらせた。平田靭負は947名にのばる薩摩軍人を率いて工事を進めたが、厳しい幕使の監督と、異郷の地における不慣れな土木工事のために多数の犠牲者を生み、かつ膨大な工事費ほ、薩摩藩の財政を極慶に悪化さぜるものとなった。工事の責任を一身に痛感した平田靭負は、宝暦5年4月24日、国家老に対し工事が全て終わったことを報告し、その翌25日に大牧村(現養老町大巻〉役館において割腹し、悲壮なる最期を遂げた。宝暦治水の顕彰と薩摩義士の慰霊とほ、明治を待たねばならなかった。明治33年(1900〉「宝暦水の碑」建立となって結実したが、大正14年に至り、海津郡地方有志により、油嶋千本松の地に治水神社創設の計画がたてられた。その後広く資金を募集し、昭和3年く1928)に社殿造営に着手した。更に昭和9年より同13年に至る第二期造営工事により拝殿、中門、鳥居、杜標等諸施設の充実がはかられ、ここに薩摩義士慰霊の中核が築かれた。 工事犠牲者のうち平日靭負は、山城国伏見町(現京都市伏見区)大黒寺に埋葬されている。他方、薩摩藩士の郷里鹿児島においても、大正6年(1917〉県内の有志により「薩摩義士顕彰会jが創設され、大正9年、城山のふもと鶴丸城わきに「鹿児島宝暦義士記念群」と80余名の墓碑が建立され、その偉業を今日につたえている。

参考文献
母なる川 木曽、長良、揖斐 朝日新聞(郷土出版)



文責:96C021 木内智一

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Revised 9 Oct. 1996