牟呂用水と松原用水

牟呂用水

牟呂用水は、毛利祥久が、牟呂地内の大規模な新田開発のために1887(明治20)年の7月に作られた加茂用水(八名村から加茂村までのやく8キロメートルの水路)を延長して作られた用水で1888(明治21)年6月に完成した。 用水工事も終わり、新田開発もう順調に進んで行くかと思われた矢先、新田は1891(明治24年)10月28日濃尾大地震に見舞われ、さらに翌年9月18日には、大暴風雨に襲われて、原形を留めないほどの被害を受け、取水施設も破壊された。 この被害のため毛利は、1893(明治26)年、新田と用水を神野金之助に売却した。 毛利氏からバトンタッチした神野は、すぐに牟呂用水の改築工事に取り掛かり、翌年に完成した。1480ヘクタールの水田が用水の恩恵を受けることになった。

松原用水

松原用水は、豊川右岸を灌漑する農業用水で、現在では、豊川用水事業に併合され、室呂用水から豊橋市加茂町で分流し、豊川をサイホンで潜り、右岸にでる。:そして約12キロメートル流れて再び豊川に落流する。この用水は、1567(永禄10年)吉田城主酒井忠次が、八名群橋尾村(一宮町橘尾)でせきの築造に着手し、池田輝政によって完成したと伝えられている。また、豊川市行明町にある松原用水記念碑には、「1691(元禄4年)5月,豊川の大洪水で橋尾ぜきが破戒され川筋もかわったので、上流の草加部村(一宮豊津)にぜきを移した。」とあり、その後1869(明治2年)に一宮松原にせきを設けた。このため松原用水と呼ばれた。豊川は、毎年数回の洪水に見舞われ、そのため橋尾堤防のせきもときどき決壊した。決壊すると、この用水の恩恵を受ける村は給水源を矢い、水に頼る農業に取っては、死活間題となった。そして、せきの設置にも大きな問題が起こってきた。つまり、せきを作る場所に当たる加茂村(豊橋市加茂町)、 養父村(一宮町金沢)草加部村(一宮町豊津)と、井組一九か村との争いになった。また。1756(宝暦6年)には、利害の相反する用水の上流と下流の村々の間に、流路の広さについて争いがあった。

牟呂・松原用水頭首工

牟呂、松原用水の両用水は何ども災害を受け、その都度、修理を繰り返してきたが、完成から長い年月が経っているため老巧化が著しく、抜本的な改修が必要となった。そこて牟呂用水土地改良区は愛知県に対して改修工事を要望した。1950(昭和25)年から調査が始められ、翌年、県営小規模かんがい排水改良事業として総事業費7379 万円で、主に水路の改良工事に取りかかった。一方、松原用水の調査も1951(昭和26)年から開始され、牟呂用水と同様、県営事業として改修工事が行われるように申請した。県は1つの川で比較的に近いところにある両者の頭首工を改造するのは、不経済であると判断し、頭首工の合同利用を両土地改良区に提案した。平成6年10月に頭首工ゲートが完成した。                                    

「参考資料」


文責:95C016 小川 美保子

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Revised 9 Oct. 1996