土木の語源の由来

土木史

選択科目 2単位 2期 担当: 事口壽男
  【授業の概要】
太古の時代から、長い歴史を持つ土木事業はその時代の社会体制、経済状況、技術水準によりその形態は異なる。今日、あるいは次世代の土木技術、土木事業のあり方を考える場合、歴史の経緯のなかで多くの教訓を見いだすことができる。1−6では、集落の始まりから現在までの代表的な土木事業の歴史とその背景となる社会体制に論点をおいた講義。7−8は天災と人間社会とが如何に共存してきたか、すなわち治水、治山の講義。9−12は生活基盤、社会資本基盤としての土木構造物の歴史の講義と土本材料や建設機械の歴史に関する講義。13−14は土木史に関する学生の発表を行う.
【授業内容】
第1週:人類の進化と土木構造物の誕生
第2週:権力の象徴としての土木構造物
第3週:宗教人が行った土木事業
第4週:戦国武将による土木事業
第5週:明治以降の土木事業
第6週:戦後、および科学技術時代の土木事業
第7週:治水、治山の歴史と土木
第8週:地震の歴史と土木
第9週:生活地盤としての土木構造物
第10週:社会地盤としての土木構造物
第11週:建設材料の変遷と土木
第12週:建設機械の変遷と土木
第13週:私の町の土木史
第14週:隣の町の土木史
 「土木」という言葉は、中国の漢代の書『准南子』から来ている。その中にある氾濫訓の一節に「聖人乃作為之築土構木」とあり、この一節から「土木」の名が生まれた。日本では、奈良時代に書かれた『日本書紀』に橋や堤をつくる様子が描かれているが「土木」という言葉がいつごろから使われだしたか定かではない。
鴨長明が記した『方丈記』では、都づくりをする様を表すのに「土木」という言葉が使われている。しかし、日本に近代的な土木技術が普及したのは、体系化された西欧の土木技術が輸入される明治維新以後のことだ。それ以前にも、すでに治水技術など日本独自の優れた土木技術は発達していたが、輸入技術を取り入れることで日本の土木技術が確立されてきた。
 ちなみに「土」という字は、上の一は大地、下の一は根、中の縦の線は根から大地を抜けて天空に向かう芽を表す。また、土木工学の「工」は、上の一が天の自然現象を、下の一が地上の人と社会を表し、縦の線は自然現象と地上社会を結ぶものである。この言葉には、天地創造の意味が含まれている。  土木技術は人類文明と不可分であると同時に、地球や自然にも大きな影響を及ぼす。技術者はその貢任の重さを片時も忘れてはいけない。
日本列島の成り立ち  数十万年の大昔には,中国大陸と陸続き。今日のような日本列島ができあがったのは,今から約1万年前。
古モンゴロイド/新モンゴロイド
 かつて人類学は、肌の色や毛の色、性質、顔の彫りが深いか扁平かなどの、目に見える特徴によって人間集団を分け、その系統を論じていた。これらの性質は、遺伝もするが環境によっても変わり得る。現在、日本人の起源とかかわる有カな説は、アジアの新人、モンゴロイド(豪古人種)を古・新に分けての説明である。古モンゴロイドは、白色人種(コーカソイド)などと同様、もともと彫りの深い顔を持っていた。3万年前、ベーリング海峡が地つづきであった時、彼らはアメリカに波って原住アメリカ人(インディアン)の祖先となった。  一方、アジアに残った人々のうち、シべリアに閉じこめられた集団は、その極寒極乾を生き抜くための適応を起こした。つまり、自然淘汰によって、その厳しさに耐える身体の性質を備えた人たちだけが生き残り、それ以外は滅びるという経過を経て、姿、形をすっかり変えてしまった。体温を失わないように手足は短くなって胴長短足となり、凍傷にかからないように,鼻は低くなった。しかし、冷たく乾いた空気を湿らぜて肺に送るためには、鼻の穴の中の容穣は確保しなければならず、横に広がった。眼球が冷えないように、また涙が凍らないように、脂肪の膜が形成されて一重瞼となった。
  日本人の形成
 日本列島に到来した人々も縄文人も、古モンゴロイドであった。弥生時代以来、西日本に新モンゴロイドが到来して古モンゴロイドと混血を繰り返して、本土日本人、すなわち本土人のもととなった。彼らは、北豪古、バイカル以東のシべリア、中国東北地方などに住む人々に極めて近い。彼らが至らなかった北海道や沖縄には、古モンゴロイドの形質をひくアイヌの人々と南西諸島の人々がいる、というのが人類学における最近の学説の大要である。ちなみに、血液るGm血清型の種類によると本土人の起源は、バイカル湖付近にある。
A旧石器時代    打製の石器を使い,土器・弓の利用も一般化しなかった。
B新石器時代    国土に住みついた日本人は,磨製石器を使い、縄文文化と呼ばれる土器文化をつくった。
縄文式時代
 @時期       前3世紀ごろまでの数千年間
A 縄文式土器    黒ずんで,きめが荒く,表面には縄目の模様
                         で、手づくり。
 B貝塚から出るもの 貝塚は古代人のごみすて場。現在まで約1000箇所見つかっている。あさり、はまぐりの貝がら,木の実の炭化物,たい、すずきの魚の骨、しか、いのししの骨など。
 C狩りと漁の採築生活 狩りや漁を中心とした採集生活で,不安定だった。
 D竪穴式住居  生活に便利な台地の南斜面に住む。竪穴式住居は,十数戸ぐらいまとまった集落として発見される。
 E社会のしくみ   共同で生活。獲物は平等に分配。
 F風習と信仰    自然物を崇拝し、占いやまじないを行った。土偶は30cmまでの大きさで,女性をかたどったものが多く,女性の地位の高かったことを物語っている。(インターネット参照)
 縄文人の土木工事
 縄文人の上木工事について、これまでの理解をこえる資料が、つぎつぎと見つかっている。  栃木県小山市寺野東近傍では、中央に径100mの円形の空間を地面を掘り下げて作り、でた上をそのまわりに径165m、高さ4m積みあげて土手にしている。縄文時代後期の約7OO年間かけて作った施設である。中央の空間は、住居も基もないから、祭りのための広場であったらしい。 青森市三内丸山遺跡では、縄文中期の約1000年間にわたって、排上、残土や土器、石器などを廃棄して長さ100m前後、高さ2mの上の山を八字形に二カ所作っている。遺跡の一角で、径80cmの柱を6本、長方形に建てた建物の跡が見つかっており、大型建物がこの時期までさかのばることを明らかにしている。  青森市小牧野遺跡では、たくさんの石を円形に二重に並べた祭り場が見つかっている。長さ40〜50cmの細長い丸石を縦に立て、その隣は3〜6段横積みとし、これをくりかえして外径35mの円をスタンド状に作っている。墓は、この施設を一部こわして作っている程度であるから中央の平坦な空地は祭りに使ったのであろう。このような大きな土木工事や建物の跡が統出すると、縄文時代に階層社会があったとか、奴隷がいたという議論がわいてくる。西ヨーロッパの新石器時代にも、長大な墳丘と石室をもった基など、巨大な石を用いた施設がいくらでもある。しかし、階層社会の存在はない。採集社会では基本的に貧富の差、身分の差が育たないから、縄文時代の土木工事は別の観点から見ることが必要である。
弥生時代
 磨製石器が広く使われると同時に,金属器も使われるようになった金石併用時代とよばれ、社会の変化として、村のかしらが,村全体の指導者・支配者としての地位をもつようになった。
 @時期      前3世紀から後3世紀。
 A稲作の始まり  西日本から始まる。
   1.木製の農具やもみあとのついた土器が発見された。
   2.水田・高床式の倉庫のあとが,登呂で発見された。
   3.銅鐸にも,米を脱穀する様子が描かれている。
 B弥生式土器  1884年、東京、本郷弥生町の向ケ丘貝塚で発見された口の欠けた土器が弥生式土器と命名された。赤かっ色で,質のよい粘土帯を積み上げて成形。薄手で堅い。
 C金属器の伝来 大陸から、朝鮮半島を経て銅剣、銅鉾、銅鏡などの青銅器が伝わり,わが国でも銅鐸など独自の青銅器がつくられた。このころ鉄器も伝わった。
 D二大文化圏
   1.飼剣、銅鉾  北九州、中国、四国に分布している。
   2.銅鐸     近畿を中心に分布している。
 E住居の変化 台地から水辺の低地へ定着。壁宍式住居のほか,高床式の家もつくられた。
 F村の発達  農業を行う生活となり、集落の規模が大きくなった。
 G社会変化  農業による蓄えができ,貧富の差が現れた。富んだ者が村の指導者となり,村を支配した。

2章 人類史の五大革命とその背景

   入類革命、農業革命、都市革命、精神革命、科学革命について述べる。
2.1 人類革命にはじまる文明史(Anthropoid Revolution)
  これは人類が広い意味での類人猿から入間になった段階の変換を意味します。 東アフリカでこのことが起こった。
@ 1924年にダートとブルームがアウストラロピクテスをアフリカ東南部で発見
A 1961年にルイス・リーキーが、ケニア・タンザニア国境にあるルドヴァイ渓谷で、道具とともに人間の一番古いかたちであると思われる骨を発掘し、ハビリスと命名。
 B1972年に、その息子りチャード・リーキーが、北のツルカナ湖畔で、ホモ・ハビリスと同じであると考えられるもう少し古い骨を発見。
B1973年にはジョハンスンがエチオピアのハーザルでアファール人と名付けるものを発掘。これは200ー300万年前くらいのものである。

人類の成立=人類革命は東アフリカにおいて200ー300万年前に成立
 
       200万年前は新生代の第3期が終わり第4期に移る時期で、地球の気候が寒冷化してきた。一部においては、乾燥化が顕著に進んだ。アフリカ東部から南部にかけて森林地帯の草原化が始まった。ある霊長類は森林をおって、従来の生活様式の踏襲。ある霊長類は木から降りて森を離れ、狩猟を開始する冒険を始める。このことが人類の誕生と結びついていく(NHKでは東アフリカでの火山の発生により森林地帯が消滅したとある)。
                     2. 2 農業革命(Agriculture Revolution)
  人類はその歴史の99パーセント以上を狩猟採集の生活を通して、不安定な暮らしを続けていた。その人類の一部が、あるところで農耕を発見し、野生植物を栽培化すると同時に野生動物を飼育化するようになってきた。

   これは食料の能動的な生産と確保の営みを開始する
    = 二番目の人類史の転換期である。
  @ 紀元前7000年位にメソポタミアに麦農耕が開始されたことが通説であった。
A1952年にカール・サウアーが東南アジアでイモ類を中心とした一番古いかたちの農耕が、豚の飼育とともに始まったという説で、1万年から1万2千年前のことといわれています。
 B1959年にジョージ・マードックが西アフリカのニジェール川のほとりで、マンデ族により雑穀農耕を起こったという説
 Cマクニーシュは、メソアメリカのテオティワカンなどを中心に前5千年頃トウモロコシ農耕が始まったという説。

農耕は約T万年前から始まった
  一万年前頃は今氷河時代が終わり、いわゆる後氷期となる。この後氷期は、全体として温暖化をもたらした。温暖化に伴う水位の上昇による陸地が減少し、人日が超密化したことによる新たな開発があった。メソポタミアでは、温暖化による大洪水が起こりマンモスやバイソンなどの大型哺乳類が死滅した。人間の増加と狩猟採集技術の向上による乱獲も原因して食料危機が生じ、ここに農耕が開始された。
2.3 都市革命(Urban Revolution)
都市文明の成立を意味します。都市革命は、ユーラシア大陸の四つの地域とアメリカ大陸の二つの地域で起こったと考えられる。
 @シュメールでは、紀元前3500年に起こりました
 Aエジプトでは紀元前3000年
 Bインダスで紀元前2500年
 C中国の段で1500年。しかし、最近の考古学では紀元前3000年位が都市文明の始まりと言われている。
 Dアメリカ大陸では、メソアメリカのオルメカとアンデスのキャビシに、紀元前800年頃、都市文明が現れている。
紀元前4500年から、紀元前3500年までは、35度以北が乾燥しており、35度以商は湿潤化していた。これが紀元前3000年以降逆転し、35度以北が湿潤し、35度以南が乾燥化した。その乾燥化した所にメソポタミア、エジプト、インダスの都市文明が成立している。この乾燥化により牧畜民が砂漠を追われ、水を追って大河の中下流域に行き、定住農耕民と接触する。それによって、都市文明が成立したのだろうという説がある。また、農耕民の所へ商業民が入っていった。 気候変動によって文明の転換が刺激され、この乾燥化にともない、人類が大河のほとりで灌漑による大規模農耕を発展させ、非常に収穫率の良い農耕を作り上げた。    それによって、チャイルドのいう社会的余剰が生まれる。すなわち、一部の人が行う農耕の余剰に頼って生きて人、農耕をやらなくてもすむ人々が現われ、それが都市の市民となった。しかし、都市革命の根底は農耕基盤であり、これが高度に発達した。
「人類破滅の選択」、安田喜憲、学習研究社、1990年)
2.4 精神革命(Spiritua1 Revo1ution)
これは心の内部の変革、つまり精神の変革であり、高度宗教や哲学の誕生を意味する。
@イスラエルではアモス、ホセアからイザヤ、エレミヤ、エゼキエルを通して第二イザヤに至るまでの、いわゆる「旧訳聖書」の預言者たちが前8世紀頃から現われてきます。これはやがてキリストにつながっていき、イラエルの精神革命は充実する。
A ギリシアではタレス、ピタゴラス、ソクラテス、そしてプラトン、アリストテレスに至る、いわゆるギリシアの哲学者。
B インドでは、ウパニシャッドから始まってアジタ、パクダなどのいわゆる六師外道の哲学というものが現われてくる(古代インドのシャカの時代においてヴェーダの権威を否定し、新興都市の王侯貴族や商人の援助の下で活躍した六人の哲学者の思想)。それから、マハーヴイーラ、シャカムニたちのインド哲学・宗教の誕生。
C 中国では、孔子、老子、荘子、孟子、萄子といったいわゆる諸子百家の登場。

紀元前8世紀から前4世紀にかけてイスラエル、ギリシャ、インド、 中国でほぼ並行して生じている
都市文明とは、本質的に定住農耕共同体のイデオロギーを基盤としている。定住農耕民の生活は、その農作物の成長に呪術的なものを頼りとするから、死してまた蘇る神秘的な生命力を賛美する。大地の豊穣な実りを求めようとして、大地母神を信仰し、呪術的・神秘的な宗教儀礼を発達させる。その文化は類型的に言えば、祝術的、秘儀的なものであり・情熱的でウェットです。それに反し、遊牧民の生活ほ、広々とした草原のなかで、家畜のために牧草を求めて居住地を変える。そこでは、合理的な判断が重要になってくる。また、頭上には広漠たる唯一の天が広がり、人々を支配する。そこに信仰の特色も自ずと現れる。天候や風雨に影響を受ける非合理な要素に依存する農耕作業とは異なり、いちおう事あるときに共通の目的に向って、合理的かつ現実的に行動する。これが遊牧民である。従って、戦闘的、統一約、合理的でドライな特徴を持つ。
この遊牧民の文化が安住農耕民によって、形成されていた都市に進入した。このときに、精神革命という思想の合理化が行われた。
@ イスラエル− 土着天候神バアルにたいし、天の神ヤハウェ(天も土も両方創造する統一的な至上の神)が登場した。このヤハウェの信仰を説く人が旧約聖書の預言者である。
A ギリシャ− 農耕の神デュオニッソスやデメテルから、オリュンポスの神々が北方からやってきて、その上にのっかって、天の神々となる。これらが、合理化されてタレスのような哲学が生れた。そこでは商業とともに遊牧的な海洋民と結びついて哲学が発達した。
B インド− 農耕民のインダス文明があり、その上にアーリアンが侵入してきてヴェーダの神々が力を持ってきて、土着の信仰の上に乗っかっていく。そして、それを乗り越えて前述の六師哲学や釈迦、ジャイナ教が成立した。
C中国一 精神革命が行われる前は、「山海経」のなかにみられるようなさまざまな農耕的、呪術的な怪力乱神がいたと思われる。それが、遊牧民が入ってきて、天の神を導入することにより、怪力乱神を否定するような孔子の哲学が生ずる。従って、定住農耕民の文化を中心とする都市国家の中に侵入し、そこに二重構造を作った。そのことが、思想の合理化、すなわち高度宗教ないし哲学の誕生へとつながっていった。
第2期精神革命
 第2期の精神革命というのはイスラムの勃興と西欧世界のキリスト教化、さらに中国の仏教化指すものであって、重要な世界史の転換期をつくったもの。これについては省略する。
5.科学革新(Scientific Revo1ution)
17世紀西欧に近代科学が形成されたことです。つまり、ガリレオ、デカルト、ニュートンの時代である。
@ 人類革命は、アフリカの一箇所で起こり、これが世界中に広がっていった。農業革命、都市革命、精神革命は、様々な地域で平行ないし独立して起こってきた。
A 科学革命の特徴は17世紀の西欧という一カ所に限定されている点にある。
B この17世紀に起こった近代科学が、18世紀後半に起こった産業革命と結びついて、そのまま今日の科学技術文明、すなわち核時代、宇宙時代をつくりあげてきた。
C 科学革命が起こった時代は、昔は非常に素晴らしい時代といわれていたが、実は決してよい時代ではなかったようである。気候的に見れば小氷期で、気候酌、環境的に大変悪化した時代である。農業生産力が下降し、疫病が大発生した。この気候悪化は、すでに14世紀に始まっていますが、同じ頃から、実は近代科学の歩みも始まっている。そして、17世紀後半に頂点に達した。
D フランシス・べ一コンが、自然を支配し、その上に人間が国を建てるのだ、と言ったようにヨーロッパが非常に貧しかったからであると考えられる。貧しいが故に、なんとかしようとして、自然を支配する方向へ向かったのではないか。たしかにその後人間は自然を利用し収奪して、いろいろなものを作りあげた。
E 現在は、人間により搾取された自然がうめき声を上げ、ガラガラ声を立てて崩れ落ちようとしている(公害、自然破壊、酸性雨等)。
F コロンブスが新大陸発見に出かけたのも、やはりヨーロッパが貧困からの脱出を目指したという事だと考えられる。その際に、脱出の方向を、東はトルコに抑えられたため、西へ新しい活路を求めなければならないということで新大陸を発見できた。従って、科学革命とは、小氷期の気候のよくないときにヨーロッパ人の苦境を脱出する新たなブレーク・スルーとして成立したものであるといえる。
気候変化と5大革命との関係
@1万年前の農業革命でちょうど温暖化がはじまっています。気候変動が大きく関わっていることが判る。
A都市革命では、紀元前3000年位から寒冷化し、そこで都市革命が起こっている。 B精神革命も、ちょうど寒冷期がはじまったところと一致する。
C精神革命には第1期と第2期があり、第1期は釈迦や孔子などが現机た時代です。ここでも気候が寒冷化していた。第2精神革命というのはイスラムの勃興と西欧世界のキリスト教化、さらに中国の仏教化を指すものであって、重要な世界史の転換期をつくったものといえますが、これも六世紀ごろの寒冷化と関係がありそうです。小氷期が二つあって、このうち第一小氷期は「科学革命」に対応しますが、この第二小氷期は一八世紀の後半で、ここでまさに産業革命がはじまっています。ですから産業革命も、決してよい時代に始まったのではないでしょう。やはり、気候的・環境的な悪条件のなかでなにか薪しいものをつくって、もう一つ盛り上げなければならないムードが、どこかでヒタヒタと人々の意識のそこに迫ってきていた。それが産業革命をつくりだした。この気候変動と文明史的変換は、おおよそ例外なく結びついているのは事実でありこれは大きな発見である。このことは「文明と環境」という問題についても、重大な示唆をなげかけるものではないかと思われる。
6.文明の変換期=環境革命
 まさに現代は、「科学革命」以後の第六の大きな文明の変換期です。17世紀の科学革命以来、産業革命を経て、情報革命のただなかに我々はいるわけですが、これらは本質的には科学革命の延長で、この革命の第二期、第三期と考えてよい。物質、そしてエネルギーの生産が、情報の生産へと移ってきただけの話です。したがって、トフラーの「第三の波」のように、情報革命をもって今日の文明変換期の特徴だというのには、賛成しかねる。もっと大きな、深い意味での文明の転換期に、今日我々は存在している。その転換を主導するものは、まさに環境問題です。したがって現代の変革期を「環境革命」(Environmenta1 Revo1ution)の時代と名付けてよい。。環境問題は、現代人の抱えている諸々の問題の一つではないのです。そうではなく、科学も技術も哲学も倫理も政治も経済も、この問題にかかわって根本的な変換を遂げなくてはならない。そういった文明の大変換を導く役割を担っているのが今日の環境問題だといえると思います。我々の今日の文明転換も、環境・気候変動と密接に連動しています。この文明と環境の関係が、現在においてはこれまでのものと異なるのは、ひとつは我々の環境危機をもたらす力が以前よりもとてつもなく大きくなっているということです。これまでの気候や環境の変動は、自然現象そのものであるか、あるいは人為によるとしてもそれはきわめて長い時間をかけて徐々に起こって来るものでした。しかし現在においては、科学技術の発達により、人間の自然に対する働きかけの力は以前とは比較にならないほど強大となり、かつ大量消費社会の進展によって、人為による破壊がきわめて急速かつ大規模につくり出されています。今日の環境変動は単に自然現象につきるものではなく、また長い時間をかけてゆっくり進行するものでもなく、人間の自然征服の力の著しい拡大と大量消費の欲望の増大によって人為的につくられ、きわめて急速かつ大規模に進行してゆき、やがて人間自身をも滅ぽさねば止まらないほどの危険をもつに至っています。だからこそ、我々はこの環境問題を現代という転換期を主導するものとしてとり上げ、正面からこの危機をのりこえる方途を早急に見出してゆかねばならないわけです。第二に、この今日の環境危機は出口なしの危機であるということです。これまでは地球上のどこか一部で環境が悪化したときは他のところへ移動するというやり方をとることができた。それが文明の地域の交替にもなっていたわけです。しかし、今日我々の抱えている環境危機は、全地球的なものであり、もはや出口がありません。ですから、どこの文明の危機ということではなく、まさに地球全体の危機です。したがって、我々はいまや地球的な環境危機に対して、我々自身がどのような態度をとってこれに真剣に立ち向かうかを、自覚的に行わなければいけないという大変革期に向いあっています。我々は、世界の人々とともに、今日の文明変換においてなにがなされるべきかを、真剣に考えなければならないときである。

「参考文献」伊東俊太郎「比較文明」東京大学出版会1985年
      伊東俊太郎「文明の誕生」講談社学術文庫1988年
      比較文明と日本」中の「地球の危機と文明の転期」

〔参考文献]
成岡昌夫、新体系土木工学別巷』(技報堂出版)
合田良寛、土木と文明、鹿島出版会
長尾義三、物語 日本の土木史

*准南子 前漢の皇族である准南王劉安(紀元前179ー紀元前122年)編の書物。全12編。道家の道の思想を核に、幅広い知識を結集して編纂された。
*鴨長明 鎌倉初期の新古今調の歌人 :33才で干載集に入集、歌人として活躍するが50才で出家し隠遁生活を送る(1155-1216)。


文責:事口壽男

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Revised 9 Oct. 1996