§街道めぐり歩き§

広報なごやより



東 海 道

 

 東海道は、起点を江戸日本橋、終点を京都三条大橋とし、江戸時代初期に幕府が整備した五街道の中で最も重要な街道でした。名古屋の宮(熱田区)と鳴海(緑区)を含む53の宿場が置かれ、多くの人々が往来しました。
 鳴海宿の見逃せない街道名物に有松絞と鳴海絞があります。「東海道中膝栗毛」の物語中にも弥次・喜多が大騒ぎの揚げ句に手ぬぐいを買うくだりがみられます。当時、尾張藩では有松と鳴海だけに生産を許可するなどの保護を行い、この周辺には絞染を売る店が幾十軒と軒を並べていました。緑区有松周辺では今も当時の面影を残す町並みを見ることができます。


塩 付 街 道

   塩付街道は、鳴海潟や星崎沿岸で作られた塩を馬の背に積んで内陸部へ運んだ道です。
経路は星崎(南区)から中根・石仏・川名・出来町を経て矢田(東区)に至り、瀬戸街道や飯田街道と接続していました。昭和区塩付通は、この街道名が由来となってますが、実際の街道はこれと異なり、塩付通二丁目交差点で塩付通と交わるかたちで南西から北東に走っています。
 現在の星崎・鳴海付近で当時の塩田の面影を見つけることはできませんが、瑞穂区から昭和区を経る曲がりくねった道には、街道筋をしにばせる一本松や、馬が丈夫で塩を運んでくれるよう祈ったであろう馬頭観音が残っています。


木 曽 街 道

 

 木曽街道は、名古屋から小牧、善師野、土田の各宿を経て中山道伏見宿(現在の岐阜県可児郡)に至る街道です。犬山城主の成瀬氏が年頭に名古屋城へ出向くのに利用したため「名古屋往還」とも呼ばれていました。尾張藩が設置し、中山道を通る参勤交代の道として使用した街道でしたが、松並木や一対ずつ築かれた一里塚など、幕府管轄の街道に劣らぬ整備がされていたといわれています。
 国道41号清水口あたりから、黒川橋、東志賀、安井を通り、庄内川を渡って味鋺から北へて続く街道は、一部に旧道のままの道幅を残し、当時の面影をしのばせています。


佐 屋 街 道

 

 佐屋街道は、東海道の熱田・宮宿と桑名宿の間の海路「七里の渡し」を避ける脇街道で、船に弱い人などが利用しました。
 距離は七里の渡し経由より二里長く九里(約35キロ)。宮から岩塚・万場・神守(かもり)・佐屋の宿場を経た後、佐屋の渡しで佐屋川(現在は消滅)・木曽川を越えました。
 宮宿から美濃路と重なって北上し、現在の国道19号金山新橋交差点南西の歩道上の道標で分岐し、西へと続いています。当時の様子を残すものは少なくなりましたが、中村区烏森付近の家並みには古い道筋の面影が残っています。


美 濃 路

 

 美濃路は、江戸時代に東海道と中山道を結ぶ脇街道として発達しました。その経路は、宮の宿で東海道から分かれて名古屋から清洲、稲葉、萩原、起の各宿を経て美濃国に入り、 墨俣、大垣を経由して垂井宿で中山道に合流しました。東海道・中山道・日光・甲州・奥州の五街道とともに道中奉行管轄の主要な街道で、 大名行列、朝鮮通信使、琉球王使などのほか、多くの庶民も往来し、にぎわいのある街道でした。
 市内の美濃路をしにばせる要所には、モニュメントや道標(起点となる熱田区伝馬一丁目に復元)、案内板などを設置して、往時の様子を紹介しています。 写真は,旧街道をほうふつとさせる枇杷島橋北東のモニュメント


飯 田 街 道

 

地蔵尊の肩に「左やごと道 右東海道新四国道」と刻 まれている 飯田街道(現在の国道153号)は明治9年に「県道飯田線」とさ れてからの呼ぶ名で、以前は駿河町(現在の東桜)から赤池までを駿河町街道、 その先からを伊那街道と呼んでいました。
伊那街道は信州と名古屋を結ぶ重要な 交易路で、「中馬(ちゅうま)」とよばれる荷馬が行き来し、飯田方面からは葉 たばこ・麻を中心とした山の産物、名古屋からは海産物、日常雑貨などが運ばれ ていました。 名古屋の街を東南へ斜めに延びる街道は、拡幅されて、昔の面影 は少なくなりましたが、大久手、川名へと続く道筋や小坂町にある道票の地蔵尊 などがわずかに往時をしのばせています。


▼ローカル情報トップページへ



§なごや橋物語§

広報なごやより


裁 断 橋(最終回)(熱田区伝馬2丁目,地下鉄・名城線 伝馬駅より旧東海道 東へ100m)  


熱田神宮の南、国道一号線から奥まった住宅地の一画に往時の面影をしのば せる裁断橋。天正18年(1590年)、秀吉の小田原攻めに加わり、18歳で 陣中に没した堀尾金助の母が、わが子の菩提(ぼだい)を弔うために橋を架け替 えました。その際、擬宝珠(ぎぼし)に由来を刻み、東海道往来の旅人に「念仏 申給へや」と供養を頼んだといわれています。
 橋のあった宮の宿東の精進川は大正15年に埋められましたが、裁断橋は縮 小して復元され、今も人々に平和と子を思う母の願いを訴え続けています。


記 念 橋(中区上前津2丁目,地下鉄・名城線 上前津駅より東へ200m)

明治43年、名古屋開府300年を記念して第10回関西府県連合共進会が 開催されました。当時、名古屋では商工業がめざましく発展し、この機械に全国 にその力を示そうと、会場となった鶴舞公園を中心に道路が整備され、噴水塔、 奏楽堂などが建てられました。また、機械館や蚕糸館といった会館にはきらびや かな照明が施され、人の目を引きました。
上前津交差点の東、新堀川に架かる記念橋は、その事業を記念して同年に架け られました。現在の橋は昭和52年に改築されたもので、石造の親柱は当時のも のが、そのまま使われています。


五 条 橋(西区那古野1丁目,地下鉄・鶴舞線 丸ノ内駅より西へ200m)

かつて、尾張城下であった清須(現在の清洲町)は、土地が低く、軍略的に も不利な土地柄でした。そこで、徳川家康は第9子義直に尾張を治めさせるにあ たって、名古屋城を築き、本拠を移すこととしました。この「清須越(きよすご し)」と呼ばれる町ぐるみの大移動が、現在の名古屋の基礎を築きました。
西区円頓寺通り東の堀川にかかる五条橋は、この際に、清須城近くの五条川ぁ ら移築したといわれています。 昭和13年、現在のコンクリ−ト橋へと改築さ れた際に、当時の擬宝珠(ぎぼし)は取り外されて、名古屋城に展示されていま す。


三 階 橋(北区新堀町,名鉄・小牧線 上飯田駅より北へ300m)

 北区と守山区の境、県道名古屋犬山線の矢田川に架かる三階橋。三階建て の造りでもないのに風変わりな名前がついた理由は庄内用水にかかわりがありま す。

 この用水は庄内川から取水した水を農業用水として南部へ引いていますが、 矢田川を横切る方法として、川底に「伏越(ふせこし)」というトンネルの水路 が設けられています。この「伏越」を一階、矢田川を二階とみなし、その上に架 かる橋ということで、三階橋と呼ばれるようになりました。当初の橋は明治中頃 に造られ、現在の橋は昭和2年に改築されたものです。


落 合 橋

《恋する出会いのはし》 (瑞穂区洲山町,地下鉄新瑞橋より東へ30m)

 新瑞橋交差点のすぐ東に架かるのが落合橋です。治承3年(1179年)、 平清盛に井戸田之庄へ流された太政大臣の藤原師長と豪族の娘が恋しあう仲とな り、出会いをくり返したという伝説から橋の名が付いたといいます。師長はこの 橋で娘と会い、左右田橋まで岸を上って、京都を望む高台で琵琶(びわ)を弾い て聴かせたといわれています。800年以上の昔に物語の舞台となった橋。今で は幅24bのコンクリ−ト製の橋にその名をとどめています。


納 屋 橋

(中村区名駅5丁目,笹島交差点より東へ500m)

納屋橋が堀川に架けられたのは、1610年(慶長10年)のこと。この一帯 が当時、納屋町であったことからこの橋の名が付けられました。幾度かの改築の 後、明治44年からの工事によって、モダンな鋼製ア−チ橋に架け替えられまし た。この時、高欄には、郷土三英傑の紋を模様化した浮き彫りが施され、中央部 には堀川開削の功労者である福島正則の家紋「中貴十文字」がはめこまれていま す。この橋は昭和56年に架け替えられましたが、この高欄は補修して再使用さ れ、明治の情緒を今に伝えています。


▼ローカル情報トップページへ


§なごや産業事始§

広報なごやより




産業技術記念館


 産業技術記念館(西区)はトヨタ自動車創業者の豊田喜一郎氏の生誕100 周年にあたる、平成6年6月11日に開館しました。今では見ることが少なくな った赤レンガ造りの建物は、旧豊田紡織本社工場に残されていたもので、歴史的 に貴重な建築物です。
館内には、喜一郎氏とその父親である豊田佐吉氏が築いた自動織機や紡織機械 、自動車製造の歴史を、実際に機械を動かして紹介しています。 「モノづくり 」の心に触れる機械が減った現代にその精神と、それに必要な「研究と創造」の 大切さを語りっけているようです。


カラ−テレビカメラ



カラ−テレビの本放送が始まったのは今から37年前のことです当時のテレ ビカメラは部品に真空管を使用していたため、大型で機動性がよくありませんで した。小型化のためには、まだ性能が不安定だったトランジスタを部品に使う必 要がありました。 1962年に中部日本放送(CBC・中区)でこのトランジ スタを全ての電子回路に使ったカラ−テレビカメラが製作されました。当時の最 先端技術を結集し、改良に改良を重ねて完成させたといいます。手のひらサイズ のビデオカメラが造られる現代からみると、小型化を夢見た当時の技術陣の先見 性をこのテレビカメラは物語つているようです。


日本最古のアーク溶解電気炉

                 保存場所:港区竜宮町 大同特殊鋼樺z 地工場

現在、日本で製造される鉄のうち、約3分の1がア−ク炉によって製造され ています。ア−ク炉では電気によって3,000度以上の熱を作り出し、鉄を溶 かします。主に鉄クズや車のスクラップなどをもとに鉄を製造しており、リサイ クル産業としての役割も担っています。 ア−ク炉の第1号は、1916年に大 同特殊鋼(中区)で製作されました。1.5トンの鉄を製造できたこのア−ク炉 が今日の製鋼用電気炉の原型となり、現在では当時の100倍以上の容量の炉が 造られるほど技術が進歩しました。 電気製鋼業の創始期を支えたこのア−ク炉 はその功績により、1988年に米国金属協会から歴史的遺産として認証されま した。


鈴木バイオリン第1号


バイオリンは、古い歴史と完成された機能美を持ち、多くの人に愛されてい ます。子ども用から演奏家用までさまざまなバイオリンが国内で製作されていま すが、この楽器の国内生産数は名古屋が第1位であることをご存じでしょうか。 名古屋のバイオリン製作は鈴木政吉氏が1887年にたまたま友人の持っていた バイオリンと出会い、見よう見まねで始めたことにさかのぼります。父親が三味 線の製造をしていたこともあり、第1号は一晩でスケッチし、一週間で完成させ たといいます。以来、歴史と伝統への挑戦は大変な苦労がありましたが、改良を 重ねた末、ようやく現在のように名古屋でのバイオリン製造が産業として発展す ることとなったのです。


旧稲葉地配水塔(現在:演劇練習館「アクテノン」)

配水塔は、最上部にある水槽に水をため、そこから流れ落ちる水の圧力を利 用して家庭に水を送ります。昭和12年に完成した稲葉地配水塔は当時の著しい 人口増加や産業発展のため、途中で水槽の大きさが当初の約7倍に設計変更され ました。このため水槽が下の建物よりも外側に張り出し、それを支える16本の 列柱が立つユニ−クな形になりました。大治配水場の完成後は図書館として利用 され、現在は演劇練習館として活用されています。4階に残された配水管は、当 時の役割を今に伝えています。


家庭用ミシンの国産第1号


家庭用ミシンの国産第1号機は、昭和7年にブラザ−工業(瑞穂区)で生産 されました。ミシンには高度な精密性と耐久性を備えた部品が必要で当時は国産 化が大変難しい工業製品でした。こうした部品を作るための工作機械が何年もか かって改良され、ようやく生産できるようになったのです。 最近のミシンは、 操作方法を教えてくれるものや、簡単な操作で子どもの好きなキャラクタ−が、 刺繍できるもの、より安全で操作性が高い盲人用ミシンなど、種類も豊富です。 単に衣類を縫うばかりでなく、手作りの面白さを楽しむことのできる道具として 私たちの生活を豊かにしてくれます。


▼ローカル情報トップページへ