南区の地名

この記事は「広報なごや」南区版から抜粋したものです。




新田(しんでん)

南区には海側を堤防で囲み、中を干拓して造った新田が二十四ケ所ある。ここの 面積は南区の約二分の一であり、ほとんどがゼロメートル地帯である。昭和三十四年の伊 勢湾台風ではそのほとんどが水没した。そのためか、米作りや役所への文書など と共に、高潮や洪水と闘った記録が残されている。
新田には、開築者名が多く見られ、北から図書(ずしょ・加藤図書助)、紀左 衛門(加藤紀左衛門)、長三郎(別名新伝馬・江戸屋長三郎)、氷室(氷室長冬 =ひむろながふゆ)、忠治(井上忠次郎)、又兵衛古(加藤又兵衛)、又兵衛新 、弥次衛(中村弥次衛門)、八左衛門(福井八左衛門)、北柴田(柴田屋新兵衛 )、源兵衛(山口源兵衛)と十一もある。
また造った人の行為、願いを表したものとして道徳、道徳前、加福、宝生、祐 竹(ゆうちく・別名戸部下)、大江(のち俊広=としひろ)がある。これら新田 の名は町、通、団地そして橋などに残っている。(池田陸介・郷土史家)



甚徳新田(じんとくしんでん)

 文化11年(1814年)北柴田新田の西へ柴田前新田が、26町1反歩(約26f)名和村庄屋小島庄助・柴田新田庄屋久米蔵らにより築造された。後に甚徳・神徳新田と改められた。
弘化4年(1847年)庄屋庄右衛門により天白川沿い畑地に10戸の家と甚徳神社・墓地が描かれている。この新田が安政2年の高汐で水没し『甚徳越し』と呼ばれ、被害にあった人々が北柴田・源兵衛新田へ入村している。
 昭和3年、埋め立てられて八号地になり港区船見町となっている。昭和24年、牛毛神社に合祀(ごうし)されていた神徳神社は元へ戻された。伊勢湾台風の被害地、貯木場があった所だ。 (池田陸介・郷土史家)
 (注)大同工業大学 白水校舎より西へ500mほど行った一帯である。



伝馬新田(てんましんでん)

熱田藩伝馬役人・江戸屋長三郎らによって
作られた伝馬新田の顕彰碑(豊2丁目 神明社)

尾張藩は東海道の熱田・鳴海宿場の入用金助成のため伝馬役人に新田を築立さ せた。これが南区の北と南に別々にある伝馬新田である。それぞれ寛文十三年( 1673年)、寛文十二年(1672年)の改築で南区では古い時期の新田である。 南区には、いま伝馬の地名はない。
北の伝馬新田の地は、昭和六十年十一月、豊一・豊三丁目と改名された。長い 間、土地の歴史を語ってきた地名が消えた。
南の伝馬新田の地は、要(かなめ)池=緑区乗鞍(のりくら)から用水を引い ていたので一部を要町と命名。また新田が天白川に沿っていたので天白町と名を 残している。
改名される地名にも昔をしのぶ名前がほしいものだ。(池田 陸介・郷土史家 )
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伝馬役=逓送(ていそう)用の馬を提供し、それに伴う労役に従事する課役
逓送=宿場から宿場へと順々に送ること


八左衛門新田(はちざえもんしんでん)

この位置は現在南野二・三丁目と三井東圧化学工場が入り、ほぼ中央を南北に 国道23号(名四国道)が走っている。
南野村の庄屋である福井八左衛門は塩田による塩の生涯に見切りをつけ、正徳 六年(1716年)新田開発を行った。工法を大高村の山口源兵衛に学び、知多の 黒鍬(くろくわ)と呼ばれる人たちの手で工事が行われた。
開発後に度重なる高潮のために借金が増え、妻子を新田の小屋に残して、海部 郡あたりで作男として生涯を終えたと伝えられている。
常徳寺(じょうとくじ・星崎一丁目83)には八左衛門の娘が父のために建て た墓石(現在は無縁仏)がある。また大正三年(1914年)村人は『福井八左衛 門先祖代々供養塔』を弘心寺(南野二丁目70)北に建てて、その遺徳をしのん でいる。(池田陸介・郷土史家)
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黒鍬=江戸時代、貧窮農民で、堤防・道路工事などへの出稼ぎ労働者の呼称
作男=小作人より身分が低く、新田近くの作小屋で、寝起きする者



道徳新田(どうとくしんでん)

御替地神社境内

この位置は、国道247号の東、旧町名の御替地町、豊田町(新住居表示=豊 田一〜五丁目)に広がる。南に日清紡、名古屋市環境科学研究所があり、山崎川 に接している。
寛保元年(1741年)東西400m、南北1kmにわたり尾張藩が改築した。この新田を御替地新田ともいう。それは天白川下流の天白古川新田を取りつぶし、名古 屋赤塚町の渡辺嘉兵衛にこの地を譲り渡したからである。文化九年(1812年) 道徳新田に名を改めた。
新田北に土地守護の神明社、別名、御替地(おかえち)神社がある。古い時代 を示す太いクスノキが茂り、円空作の竜神像が荒古観音から迎えられ、竜神社(水の神様)にある。他に池鯉鮒社=ちりふしゃ(田畑の害虫)、秋葉社(火)、 稲荷社(豊作)の神々も祭られている。(池田陸介・郷土史家)



戸部下新田(とべしたしんでん)

  山崎川の西、旧豊田町、旧戸部下町にひろがる。この新田は、元禄十一年 (1698年)着手したが改築に難儀を重ね、享保十三年(1728年)完成してい る。別名祐竹新田と呼ばれ、祐竹通もあったが住居表示でなくなり、祐竹橋だけ がその名を残す。
 江戸時代の絵図に広い範囲「御川」とあり、徳川の殿様がカモ猟に来られた 場所と知られている。尾張旬行記には「元御留川(もとおとめがわ)禁漁区」と ある。また第二次大戦で焼失した民家が、葵の紋入りの屋敷であったことも伝え られている。
なお祐竹橋南西角で「郷倉(ごうぐら)」が大正のころまで、年貢米の倉庫と して使われていた。新田北に戸部下神明社(祐竹橋西約100m)があり、末社津島 社は江戸時代『はやり病』が流行したとき、勧請(かんじょう)したといわれて いる。(池田陸介・郷土史家)
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郷倉=郷村に設置された公的な穀倉。多く村役人宅に置かれ管理をゆだね、郷 倉の敷地は除高として年貢を免除された。
観請=神仏のおいでを願うこと。


氷室新田(ひむろしんでん)

氷室長冬開墾地の碑
 安政3年(1856年)名古屋若宮八幡社、神主 氷室長冬(ひむろながふ ゆ)は、藩に願い出て、東西に1.5km、幅約100mの旧山崎川跡へ新田を築いた。山崎 川の流れを変えて造ったので、瀬違新田ともいった。川底を新田化したため水田 耕作に難儀し 、免税期間が40年も許されたという。
昭和50年ごろまで、新田堤防は、道徳北町1丁目から3丁目付近に竹薮として 残っていたが、今は若宮八幡社(氷室交差点北・国道247号西側)のみとなった 。この境内には、「氷室長冬開墾地」の碑が建ち、十人の協力者の名前が刻まれ ている。
新田の位置は、山崎川の祐竹橋から西へ国道247号(知多街道)を横切り、 南西方向に氷室町、三条にかけて幅100m程の東西に細長い場所である。
(池田陸介・郷土史家)


忠治新田(ちゅうじしんでん)

山崎川を横切る東海道新幹線の下に忠次橋がある。そこから西へ戸部下・忠治 ・道徳新田の三新田が接する三新通が伸びる。その三新通から南へ豊生橋(山崎 川に架かる橋)までの間に東側に山崎下水処理場、西側に山崎汚泥処理場がある あたりが忠治新田であった。
 この新田は、享保十二年(1727年)熱田神宮の神官、田島肥後(たじまひ ご)が開墾(かいこん)に失敗し、熱田田中町の井上忠次郎が完成させた。忠次 郎の『忠次』が町名に残っているが、新田名は『忠治』である。
 新田内には新田を譲渡された滝定助(たきさだすけ)・春日井丈右衛門(か すがいじょううえもん)と、小作人六十人の名が刻まれた献燈が忠次稲荷(忠次 橋西詰)の境内にある。また、忠次稲荷から道路を隔てた北側の井上忠次郎屋 敷跡に石垣が残っていたが、いまは、もう無い。
(池田陸介・郷土史家)
滝、春日井らの名が刻まれた灯籠


源兵衛新田(げんべいしんでん)

須佐之男神社と銀杏の大木(源兵衛町5丁目)

この位置は、天白川沿いの源兵衛町から北へ三吉町、鳴浜町、松下町まで入 る。知多郡大高村の庄屋、 山口源兵衛が堀川の運上権を持つ材木商、神戸文左衛 門(かんべぶんざえもん・犬山屋文左衛門ともいう)の資金援助を得て、宝永三 年(1706年)に完成させた。
 新田内の須佐之男社(すさのおしゃ・源兵衛町5丁目)に当時植えたイチョ ウの大木が立っている。山口源兵衛は新田へ用水を通すため、源兵衛池、清水池 (ともに現在はない)蛇池(じゃいけ・大高インタ−南)を大高村へ造って天白 川底を通す伏越し(ふせこし)工事をしている。
山口家は周防国(すおうのくに・山口県)出身で山口修理盛年(しゅうりも りとし)は星崎城主であった。山口源兵衛家は秀吉の頃、大高の代官庄屋となり 、代々大高村の庄屋を務めてきた。なお、本殿東側(注:現在は西側)に約九十 キロの力石(ちからいし)があり、「源兵衛新田村方 二矢之□ (不明)」と刻 まれている。(池田陸介・郷土史家)
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力石=神社の境内などに置かれている「ちからだめし」にかかえあげる石のこ と。(左の写真)


又兵衛新田(またべえしんでん)

山崎川が南から西へ大きく流れを変える南側一帯を又兵衛新田といい、現在の 東又兵エ町である。西側に又兵衛新田があり、ここを西又兵エ町という。
又兵衛新田は正徳五年(1715年)、又兵衛新田は寛延二年(1749年)、と もに笠寺村土豪加藤又兵衛勝貞により改築された。新田当時の名残りは、稲荷神 社境内のクスの大樹と手洗石に見られ、西又兵エ町4丁目にある。
昭和六十年までの東又兵エ町1丁目の畑地・又兵衛屋敷跡に、直径が六十セン チ余もある石垣の石が見られたが、今はもうない。
現在、東又兵エ町一帯は、巨大な円形ド−ムの総合体育館を中心にレインボ− プール、名古屋南高等学校、南社会教育センタ−、南保健所などがある。
(池田陸介・郷土史家)


紀左衛門新田(きざえもんしんでん)

新田の位置は国道247号と南陽通がほぼ南北に走り、中央を東海道新幹線に より東西に横切られている。
宝暦四年(1754年)熱田の豪族 加藤紀左衛門により改築され、文化元年(1804年)の頃、戸数十五・人口七十七の記録がある。堀川に架かる紀左衛門橋 、紀左衛門通、紀左衛門神社(明治小学校北東)に新田名を残している。この神 社はもと神明社といい、天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭神として境内に 津島社(疫病の神)、秋葉社(火の神)、稲荷社(稲の神)、塩釜社(安産の神 )などを祭っている。また鳥居東のお堂には役行者(えんのぎょうじゃ)、庚申 塚(こうしんずか)、青峯観音、白竜大明神の碑などが並び、新田の人々の信仰 を今に伝えている。(池田陸介・郷土史家)



北柴田新田(きたしばたしんでん)

北柴田新田・稲荷神社の境内(柴田本通6丁目)

この位置は、東が柴田本通、西は名古屋臨海鉄道に囲まれ、北から南へ、白 水、元柴田西、元柴田東町が入り、千鳥橋の西に鳴尾町の一部が入る。北柴田新 田は、天白川を隔てた南柴田新田(現東海市)とともに名和村の庄屋小島庄助ら が開築し、後に納屋町柴田屋新兵衛に引き継がれたといわれる。
弘化四年(1847年)の絵図に南北新田とも、宝暦四年(1754年)開築とあ る。この絵図には稲荷大明神(現稲荷社)、人家七戸、天白川底から南柴田新田 へ用水を送る伏越し、扇川中堤防にかかっている念仏橋、樋門(大同工業大学白水校舎西側の白水公園内に明治三十八年築造の樋門があった)などが描かれ ている。前記、扇川中堤防は昭和六十年からの工事で取り除かれ、千鳥橋東の宮 本造船所もなくなった。(池田陸介・ 郷土史家)


水袋新田(みずぶくろしんでん)

この位置は、港東通、大江川緑地に挟まれ、北から北頭、中割、堤起、神松町 が入る。ほぼ中央を東西に名古屋臨海鉄道が走る。
享保十年(1725年)本地村の庄屋、中村弥次右衛門がこの新田約二十一町歩 を開築した。弥次右衛門は東の弥次右衛門(単に弥次衛ともいう)新田も開き、 享保十八年、善住寺(ぜんじゅうじ・現在の笠寺小西)本堂を再建、墓は五百石 以上の武士の墓と同格といわれる。また、当地産の前浜塩を有名にした。江戸時 代の絵図に大江川通り堤防上に大松が描かれ、その下に加霊松神社の絵がある。 また現港東通に橦木江という海へ通ずる水路がある。
さらに昭和四十三年、土地条件図では北頭、堤起町に約三fずつの水田跡もみ られる。(池田陸介・郷土史家)


加福新田(かふくしんでん)

加福新田に隣接する山崎川を道徳橋より名古屋港を望む

名鉄常滑線の大江駅の西側一帯で、三井木材工業、大江グランドゴルフ、名古 屋港木材倉庫、貯木場などがある。
天保四年(1833年)高潮で新田堤が決壊し、アシカが入り、近郷の人々が見 物におしかけた。後日漁師に捕らえられ、『大須の見せ物小屋へ引き取られたが 、まもなく死ぬ』と、記録にある。クジラ(熱田魚市場)オットセイ(大江駅) の骨が発見されていることから、江戸時代伊勢湾で海の哺乳動物が見られたよう だ。この新田は文政十二年(1829年)名古屋商人井筒屋伊助、川崎屋藤助らに より改築されたが、度重なる災害に遭い、やっと天保六年(1835年)内田忠蔵 により完成した。明治十三年(1880年)再築される。当栄・加福新田の名を残 す。(池田陸介・郷土史家)


道徳前新田(どうとくまえしんでん)

鷲尾善吉翁頌徳碑

道徳新田の西、海側にできたので道徳前新田という。東西を、国道247号( 旧知多街道)と南陽通に囲まれ、北は道徳北町から、南は山崎川まである。面積120m、南区第一の新田で学校の運動場が百余りも入る。
文化十四年(1817年)海西群(かいしぐん・現在、海部郡)塩田村鷲尾善 吉の開墾によるが、後に尾張藩御小納戸(おこなんど)所有になり大正十四年( 1925年)に開放された。電気王と呼ばれた松永安永安左エ門、福沢桃介らが、名古屋桟橋倉庫を設立して、道徳の地を開発した。

昭和の始め、現在の大江中学校、道徳公園付近に牧野映画撮影所、乗馬練習所 、ボクシングジムなどができた。道徳観音に設けられた人工の観音山では、伊勢 湾が展望できた(池田陸介・郷土史家)
御小納戸=江戸幕府の職名。将軍に近侍して理髪、膳番、庭方、馬方などの雑 務を担当した。

            道徳公園  と 人工の観音山に安置されていた観音像 (現在は観音像は東昌寺境内にある)

道徳と4体の観音像の由来碑(東昌寺)


宝生新田(ほうしょうしんでん)

この新田は、水袋新田の西側に寛政五年(1793年)開築された。北は港東通 り、南は大江川緑地、西は名鉄常滑・河和線に囲まれ、ほぼ中央を南北に国道二 四七号線(知多街道)が通っている。天保十二年(1841年)尾張藩へお蔵入り する時、庄屋床左衛門から代官所へ出された絵地図によると、新田は用水路によ り北から笠寺村分、本地村分、南野村分に三分されている。氏神の神明社は笠寺 村分の北西部にあり、昭和十四年に宝生町三丁目、宝生公園の北に移されている 。明治四十五年(1912)伝馬町−大野町間に開通した愛知電鉄(現名鉄・常 滑本線)は、当時は単線で新田内に星崎駅があった。 (池田陸介・郷土史家)



大江新田(おおえしんでん)

あいち海苔の養殖記念碑(大同町1丁目)
大江新田の現在地は、北を大江川、東が名鉄常滑・河和線から国道247号 、西は港区との境界線で名古屋臨海鉄道、南が滝春橋の掛かる水路に囲まれる地 域である。大部分が滝春町で大同機械、中部電力社宅、三井東圧社宅、 大同工業大学 がある。
文化三年(1806年)菱屋太兵衛が開発し大江新田としたが、名古屋石町の善 右衛門が譲り受けて俊広新田とする。この新田は塩害で難儀をし、江戸期の絵図 には15本の汐貴(しおぬき)用水路がある。徇行記には「瓜を作り売り出す」とある。名鉄 大同町駅の東に明治四十年阿千輪兼吉笠寺魚業組合理事長の碑があり、名産あゆ ち海苔の産地を示す。
(池田陸介・郷土史家)


   明治新田(めいじしんでん)
 堀川と新堀川の分岐点付近より南、明治一丁目一帯を明治新田といった。こ こは、明治十一年(1878年)小見山峰法により開築された。海側は熱田から山 崎、天白川口あたりまで泥、砂礫のため、はいがい・かき・ちんめ(さるぼう) の繁殖場として知られていた。また明治四十年から海苔の養殖もはじまり、昭和 十三年には生産量が全国一。
 明治新田内には愛知県水産試験場が明治三十五年 に設立され、ぼら・こい・うなぎ・すっぽんの養魚池もあった。 明治四十三年 堀川沿いに熱田電気軌道線が神戸橋東と東築地間の2.4kmを通ったが昭和十五年廃 止された。
(池田陸介・郷土史家)

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