この記事は「広報なごや」南区版から抜粋したものです。
天白川の名は天白橋付近に天白大明神が祀ってあったのがその由来という。
南区の天白川流域一帯は古代あゆち潟の一部で、堤防が整えられるのは信長の
天正十五年(1587)頃から家康の慶長九年(1604)東海道を大改修した
頃のようだ。後に天白川口付近に伝馬新田(寛文十二年・1672年)をはじめ
として、新田が海側へつくられる度に堤防は延長された。
江戸期絵図には天白川沿いに砂田・島間・鍋弦・丸ノ内・砂ノ口・阿原・川田
・河原がある。明治初年の字図には大堀・河跡・清水・中島・島合・鍋弦・丸ノ
内・砂ノ口・鍋釣・天白添・砂田・阿原・河原・川田の地名がある。川が作った
地名でおもしろい。(池田陸介・郷土史家)
忠治橋より下流を望む
山崎村の名をつけた川。源は千種区猫ケ洞付近。南流して新瑞橋付近から南区 に入る。江戸時代に天白川の流れを、平子橋付近から山崎川へ変えたことがある 。十四年間に十七回も決壊し、落合橋の名を残す。明治二十六年の地図に、落合 橋から師長橋付近にかけて七カ所水車場が見られる。山崎・戸部村等で取れた小 麦を製粉した。昭和十八年から三十年まで水車町の地名が残っていた。
山崎川には師長橋の上(かみ)、呼続大橋の上、忠治橋の東に青峯観音の石仏 堂がある。江戸時代から昭和の初め頃まで船着場として栄えた所である。呼続大 橋上の石仏は、場所を移動しているが青峯通の名を残している。(池田陸介・郷 土史家)
忠治橋 石仏堂
安政三年(1856)前の山崎川は新祐竹橋から西へ、紀左エ門通りを抜け中
京病院付近で海へ流れていた。その川敷へ氷室新田が築かれたので山崎川は現在
の流れになった。明治二十六年の地図は豊生橋付近で南から西へ直角に流れてい
た。そのため堤防がよく切れ、大正の工事時に船に土のうを積んで沈めた工法が
見られたという。
道徳橋は明治三十年架けられたが以前は渡し舟で行来した。道徳前新田絵図に
は現・名鉄鉄橋付近に舟江(港)があり、伊勢参宮の船も出た。大正末には山崎
川沿いに日清紡績・浅野セメント・大同製鋼(現:大同特殊鋼)・三菱内燃機関が進出し、名古屋南部工業地帯発祥の地になった。(池田陸介
・郷土史家)

大同町より大江川河口を望む
大江川は東海道線西・元塩町から河口まで約3.5km。中井用水路は大江
川へ注ぐ水路である。水源地は天白区下八事下池で天白・瑞穂・南区の丘陵地よ
りの水を集めて中井用水路・大江川へ入る。全長約十一キロメートル、これを大
江川と呼んでいいのではないか。現在かんがい用水の役割を終えて中井用水緑地
にまた入江になっていた大江川は大江川緑地として一部公園化されている。
大学・滝春校舎に通じる中井用水路の緑道

中井用水路は江戸時代絵図に中井筋・中井悪水・水袋新田用水とある。また此
江通り元文六年(1741)出来とあるので本地村の七子新田(1715年)、
水袋新田(1725年)へ灌漑用水を送る水路としてつくられたものと思う。
荒井若宮八幡社に、永代常夜燈・永井太左ヱ門大江弘江天保九年刻字銘 (池
田陸介・郷土史家)
南区に残る東海道は天白川に架かる天白橋からである。昭和の初めまで松並木
が美しかった。今は、その面影はないが山崎川の山崎橋まで約3.5kmの道筋
は残されている。
天白橋から約500m右手に名古屋市唯一の「笠寺一里塚」が残っている
。直径10m・高さ3mの円丘上に幹の傷(いた)みにもめげず大き
なエノキが立っている。
まだ格子戸の見える街並みを過ぎ、坂を登りかける右側に「笠寺観音」の山門
がそびえて見える。道路の左側には自分の笠を取って観音様にかぶせたという玉
照姫の像を祭る泉増院が石段上にある。少し急な坂を登り切った右手が笠寺観音
西門で、六の日の市は人の出が多い。(池田陸介・郷土史家)
西門前を左へ200m程で名鉄の踏切。明治二十六年地図ではここが墓に
なっている。尾張志に「戸部一色城主・愛智助右衛門一族の墓」とある。ここの
宝きょう印塔・五輪塔は笠寺観音墓地へ移されている。踏切から西へ約150mに戦国時代の部将「戸部城主・戸部新左衛門碑」もある。
街道を大きく右へ曲がる辺りから約500m名鉄線路沿ういに桜神明社古
墳がある。珍しく周濠が北側に半周残っている。ここから西方に200mに
国重要文化財、銅葺きの美しい屋根の富部神社が見える。
薬師通りを越えると地蔵院がある。ここから500mで手洗石「松巨嶋」
で知られる熊野三社へ着く。街道は山崎橋へ。(池田陸介・郷土史家)
寛政五年(1793)の絵地図には『知多海道』、尾張名所図会(めいしょえ
ずえ)には『知多郡道』とある。起点は東海道の「笠寺一里塚」東南、地蔵堂(
加藤自転車店角=通称、いぼ地蔵)である。ここから天白川に架かる大慶橋南ま
で約2kmの距離。土地の人は阿原道・鳴海前之輪(ぜんのわ)への道とも言う。
明治三十年(1897)、北から新堀川に内田橋が、山崎川には道徳橋が天白
川に千鳥橋が架橋された。そのため知多街道の賑わいは、東海道の熱田橋(国道
1号の新堀川に架かる新熱田橋のすぐ下流の橋)から西百-のところ『左 江戸
道』『右知多郡新道(明治二十一年)』の※道標があった)から南へ千鳥橋へ至
る方に移る。のち大正九年(1920)内田橋から氷室新田へ新道ができ、新田
堤防を道路にした知多街道(現国道247号)がほぼ完成する。
※道標は、現在国道1号沿いの新熱田橋の西詰めにある神明社境内に移されて
いる。(池田陸介・郷土史家)
明治二十四年、陸地測量部の地図には道徳橋と千鳥橋の部分に『渡し』の記号
が入っている。当時を知る古老から、川守り(かわもり)の手で舟が出されてい
たことを聞いた。
また安政三年(1856)の絵図に旧山崎川(現・戸部下一丁目、氷室町を西
へ流れる)を「春から秋は徒歩で渡り、冬は橋を架ける」とある
。この知多街道が名古屋市南部の幹線道路となるのは、大正十四年(1925
)徳川家より道徳前新田が開放されてからでもある。松永安左衛門(まつながや
すざえもん)、福沢桃介(ふくざわももすけ)ら著名な財界人で「桟橋(さんばし)倉庫株式会社」が
設立された。
昭和三年、現・道徳公園付近に牧野映画撮影所ができた。昭和六年にはカフェ
−、コ−ヒ−、玉突き、洋食堂などが並ぶ道徳銀座通ができ、南部工業地帯に文
化の灯をともした。(池田 陸介・郷土史家)
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カフェ−=特にわが国で、大正から昭和初期、女給が接待して、主として洋酒
類を供した飲食店。
江戸時代、南野・牛毛・荒井・戸部・山崎・笠寺・本地を星崎七カ村と呼んだ
。中世から近世にかけてここの星崎塩浜で塩がつくられた。この塩は各村々にあ
る塩倉へ集められ、馬の瀬にのせられて尾張、美濃、信州信州の各地へ送られた
。この道が塩付街道である。
起点は明らかではないが、松池町3丁目(笠寺病院北側)このあたりではない
か。ここには昭和五十年ごろまで南北十一間(約20m)、東西三間(約5.5
m)の高い塩倉が残っていた。
街道と名を残しているところは、富部(とべ)神社南の坂道を登り−<旧東海
道を横断>−桜神明社(さくらしんめいしゃ)前−東宝寺(とうほうじ)西−<
北へほぼ直線に>−鳥栖神明社西−外山水路の塩付橋−<瑞穂区に入り>−瑞穂
公園−昭和区石仏(いしぼとけ)町−川名町−東区出来町へ出る。途中に汐路町
(しおじちょう、瑞穂区)、塩付通(昭和区)の地名が残る。(池田陸介・郷土
史家)