この記事は「広報なごや」南区版から抜粋したものです。
地名は、人間が集まり住み着いたところにつけたものです。
南区は、名古屋市の中でも最も古くから人が住んだところで、七千年前の粕
畑貝塚・市場遺跡が、そのことを教えてくれます。
南区の地名の文字は、万葉集・高市連黒人の「桜田へ田鶴鳴きわたる年魚市
潟潮干しにけらし田鶴鳴きわたる」に出てくる桜田・年魚市潟が最初です。また
日本書紀にも、熱田社付近のことを吾湯市村と呼んでいます。
この「南区の地名」では、千年以上も続いている地名から、つい最近土地区画
整理事業により生まれた地名までおってみます。(池田陸介・郷土史家)
あゆち潟は、万葉集に二首歌われている。一つは、『桜田へたず鳴きわたる
年魚市(あゆち)潟潮干にけらしたず鳴きわたる』
桜田は、桜付近を読んだ歌で、現在楠の大木のある村上社と、近くの八幡社
に歌碑がある。
二首目は岩戸町白毫(びゃくごう)寺にある歌碑の 『年魚市潟潮干にけら
し知多の浦に朝こぐ舟も沖による見ゆ』 である。
古代のあゆち潟は、現在の中村・熱田・瑞穂・南・緑区の低地一帯を指し、
伊勢湾北部の「海っ道」でもあった。
あゆちは湧水(わきみず)の地という説もあり、古代の愛智(知)郡が現在
の愛知県名のおこりである。(池田陸介・郷土史家)
戦国時代の戸部一色城主愛智助右衛門吉清を一色愛智入道とも呼び、一色の
地名と関係があるようだ。一色氏は足利尊氏支族一色範氏から室町幕府の要職に
あり、三河・尾張には『一色』の地名が多い。
笠寺観音文章には建長二年(一二五五)北一色・文安三年(一四四六)星崎
一色・文明十五年(一四八三)一色愛智があり、一色と笠寺観音の関係が見られ
る。
寛政五年(一七九三)絵図に戸部村字一色、天保十二年(一八四一)には笠
寺村字一色とある。明治十七年調べの字名と地籍図には東海道の東に戸部一色域
跡、その東へ字愛智塚、字西一色、字東一色と並んでいる。その他は笠寺観音北
西桜本町・西桜東に位置する。 (池田陸介・
郷土史家)
天白川の畔に建てられた牛毛神社
牛毛、荒井は天白川河口にできた砂州上にあり、中世以降の集落のようだ。
荒井の地名は全国的にひろがり、愛知県内にも数多く見られる。牛毛は、めず
らしい地名だが、牛尾とも書く。ともに砂州上にできた、新しく開かれた地と解
釈できるようだ。
江戸時代「牛毛と荒井は二村なり、文化年間より、牛毛・新井と呼ぶ」とあり
、明治九年まで牛毛荒井村とある。現在の鳴尾町一帯を指す。
この地は現在も静かなたたずまいを各所に残し、西来寺の永井荷風追慕碑、荷
風の先祖永井星渚出生地、明治四年の建物旧鳴尾学校舎、桶狭間合戦に功のあっ
た服部小平太屋敷跡等が見られる。(池田陸介・郷土史家)
明治4年建造の鳴尾学校舎

大江の地名は大江川・山崎川口南の大江町、名鉄の大江駅、道徳新町の大江中
学校、名鉄大同町駅付近の大江新田(1804年)と比較的広い範囲に見られる。
大江川の元は近世初め頃の海岸の湊(みなと)であった。ここには本地、南野
村等の船が集まり「万場の渡し」の応援に「津島祭の車船二十数艘の船」が出て
いる。
この大江湊は、海側へ七子、水袋、宝生新田とまた南側へ八左ヱ門、操出、大
江新田が出来ていく度に、入江として西へ進出していった。
大江中学校の大江は昭和二十三年内田橋から柴田までの唯一の中学校として誕
生した時、大江川の大江を採った名である。(池田陸介・郷土史家)
天白川・山崎川に挟まれた台地上南に位置する。
笠寺は笠覆寺(りゅうふくじ)、別名笠寺観音が、その名のおこりのようだ。
平安時代、鳴海の長者に仕えていた玉照姫(泉増院に像)が、笠を観音様にかぶ
せた話から、その名が伝えられている。
笠寺観音には国の重要文化財、妙法蓮華経文・愛知県文化財の銅十一面観音像
・金銅厨子等がある。また境内に、芭蕉春雨塚・切支丹燈篭や五輪塔・宝篋印塔
を集めた愛智塚等が見られる。
なお約二百b南に高さ三b、径十bの笠寺一里塚がエノキの巨木と共に残って
いる。(池田陸介・郷土史家)
新瑞橋バスタ−ミナルから山崎川を隔てて釜塚の地名が残っている。明
治初年の字図には釜塚・富士塚(新屋敷村)・姥子塚・茶塚・愛知塚(戸部村)
・申塚(牛毛村)の字名がある。一部土を高く盛り上げて築いた塚は大正の頃ま
で残存していたようだ。現在,旧東海道の道程を示す笠寺一里塚は東海道筋に今
もある。
現在でも塚のつく地名は全国に多く見られ、南区だけでも釜塚(山崎村)・
桜木ツカ(新屋敷村)・弥太郎塚・三基の姥子塚・山口墓と申伝候五塚有之名無
(戸部村)・仙人塚(桜村)と十二の塚が江戸時代絵図に残っている。 これら
の塚は中世の有力者の墓で塚名が地名となったものだ。 (池田陸介・郷土史家
)
中世から近世にかけて山崎・戸部・笠寺・本地・南野・荒井・牛毛の星崎七 か村に百町歩余(約百f)の塩田があった。そこは堤防で囲んだ入浜式塩田で曲 輪と呼んでいた。 明治十五年愛知県郡町村字名調と、南区字図に諸輪・諸輪一 ノ割・二ノ割・三ノ割・四ノ割が、塩屋町三、四、五丁目と千竃通四、五、六丁 目にあった。また松池町一、二、三丁目と松城町一、二丁目に上六曲輪、下大曲 輪、小曲輪。弥次エ町四、五丁目、浜田町四丁目に小曲輪、甚左曲輪がみられた 。現在の立脇町も水野帯刀の帯刀曲輪の名残である。曲輪の地名は廓(くるわ) の悪所観から消えたようだ。 (池田陸介・郷土史家)
桜のさく、くら共に谷または狭を指し、谷間のことをいうと、多くの地名辞
典にある。
前記万葉集、桜田の地も桜で笠寺丘陵の東辺に当たる。江戸時代の絵地図・
明治二十四年地形図に、幾つかの谷があるのに気付く。
現在の鯛取通、および数カ所の坂道になって残っている。昔廻間(はざま)と
呼ばれていた。
奈良から平安時代歌われた「催馬楽(さいばら)」に桜に住んだ人、桜人(さ
くらびと)が出ている。また十世紀頃の辞典「和名抄(わみょうしょう)」に、
尾張国愛智郡作良(さくら)郷(村)とある。
元桜田町東宝寺境内に、桜村の歴史を刻んだ「桜固本碑」がある。(池田陸介
・郷土史家)
山崎川と天白川の間、東西は山崎村にかかり、南は桜村に接し、ほぼ中央を塩
付街道が通る。新屋敷の地名は、農民が出屋敷をつくった所としてつけたのでは
ないか。江戸期から明治十一年までの村名である。
この地は戦国時代に新屋敷西城(現:医王寺)、鳥栖城(現:成道寺)があり
、古代の神明社古墳、八剣社古墳が緑の地を残している。
塩付街道は荒井牛毛・南野・本地・笠寺・戸部の塩を戦国・江戸時代に小牧方
面へ送った道としてよく知られている。
この村は尾張藩士四人の給地で土地はやせ小百姓ばかりであったと徇行記にあ
る。成道寺には鳥栖城主成田公夫妻墓碑がある。(池田陸介・郷土史家)
名鉄常滑・河和線大同駅の西側、中部電力社宅、大同機械、三井化学社宅、
一帯を滝春町という。 明治初年の大江新田村図は東から上ノ切・中ノ切・下
ノ切に分けられ、ほぼ下ノ切の部分が、昭和二十四年滝春町になった。 明治の
笠寺村役場の記録に『星崎村大字星崎地内海面貳町七反七畝歩ヲ笠寺村大字星崎
ノ地域内へ編入セントス………所有者春日井丈右衛門・滝定助他一名、明治三十九年』が残されている。また忠治新田稲荷社にも春日井
丈右衛門・滝定助献灯篭が見られる。滝春町名は滝定助・春日井丈右衛門の頭文字をとったと思う。 (池田陸介・郷土史家)
田古屋(たこや)
田古屋の地名がないのに現在も笠寺学区には田古屋通学団・田古屋公民会があ
り、祭の山車に宮元田古屋が見られるがなぜか。 次に挙げる田古屋が残ってい
た。@善住寺北共同墓地仏像に、元禄七甲戌十月十五日念仏同行廿六人・本地村
内多古屋。A同墓地大正六年春諸虫群霊供養塔、田古屋十四講中の石柱。B田古
屋山車蔵。C尾張徇行記本地村一、此村ハ一村立ノ所ニテ四組二分ル上ハ迫間・
田古屋・町組・大道組ト云フナリ。D明治十五年愛知県郡町村字名調、本星崎村
に田古屋先、現道全町四丁目で田古屋の西隣。古い地名で田小屋と同義語か。
(池田陸介・郷土史家)
塩を作った竈が、千も並んでいた所という意味か。
千竈は、江戸時代の文書・村絵図には出て来ない。
明治十一年山崎・桜・新屋敷・戸部の四村を併せて千竈村となる。また明治二
十二年前記四村の大字名に、それぞれ千竈が見られる。この千竈が、私たちに慣
れ親しまれて来た地名のようだ。
現在は、国道一号線沿いに千竈通で残っている。
南区に、千竈の地名がなぜ登場したか。一つは平安時代の愛知郡千竈郷をこ
の地とした。(中村区南部―中川区の一部)。また当時この地に上知我麻、下知
我麻神社があり、この知我麻(ちかま)を千竈にした説。それに鎌倉時代からの
塩の産地説だ。(池田陸介・郷土史家)
山崎川左岸にあり、かつては台地沿いに北から曽池(約三f)新地・松本池と
、広く沼地帯が続いていた。これが戸部の地名のおこりのようだ。
戸部村は鎌倉時代に熱田社領としてその名が見え、江戸時代初め建てられた富
部神社に、富部の名もある。ここ本殿の銅板屋根が美しく、桃山時代様式を伝え
て国重要文化財に指定されている。となりの長楽寺には市文化財指定の懸鏡が、
戸部村塩田で使われた汐汲桶と保存されている。また戦国時代今川義元方の部将
戸部新左衛門の戸部城があり、今は約三百b東方に、戸部城跡・戸部新左衛門碑
が残されている。山崎川左岸には江戸時代築かれた戸部下新田が、戸部下町名で
ある。(池田陸介・郷土史家)
明治十一年(一八七八)天白川右岸に並ぶ牛毛荒井村・丹後江新田・伝馬新田
・源兵衛新田・北柴田新田・柴田屋新田・神徳新田を合併して鳴尾村と呼んだ。
明治三十九年、笠寺村・星崎村・鳴尾村が笠寺村に統一され、大正十年、名古
屋市に編入し南区鳴尾町が生まれた。現在、鳴尾町名は白水小学校の北、千鳥橋
の西、天白川の河原の三カ所に残されている。また元鳴尾町、鳴尾一・二丁目も
ある。
鳴尾のおこりは桶狭間合戦時、今川方が天白川堤防上の鳴尾松付近に上陸した
と伝えることからだ。鳴尾公園に元禄期の木因作「此松に鳴の名はあり蝉の声」
の句碑がある。 (池田陸介・郷土史家)
荒井・牛尾・南野・本地・笠寺・戸部・山崎を星崎七カ村とする慶長十三年(
1608)の記録がある。JR東海道を挟んで南北百fに及ぶ塩浜で、鎌倉期か
ら江戸時代にかけて塩が生産されたところである。
尾張名所図会の『星崎の塩浜』は当時の情景をよく表している。この塩浜でつ
くられた塩は前浜塩とも呼ばれ、塩は街道により尾張・美濃・信濃方面へ送られ
ていた。
塩と海に関する地名を明治初年の字(あざ)図に見ると荒浜・高塩屋・曲輪(
くるわ)・磯浜・汐田・内塩家等がある。笠寺駅付近の立脇は戦国時代部将の所
領帯刀(たてわき)曲輪から採った地名である。(池田陸介・郷土史家)
本城は星崎城を言い、戦国時代名古屋南部から知多半島北部を代表する城であ
った。
城に関した地名は、明治初年の字図に羽城・城下・城・柵下・本城・堀割・町
とみられる。また現在の地図にも本城町・本城・堀割・町・城下町が残っている
。
戦国時代には笠寺台地上には10の城があった。北から@山崎城(安泰寺)A
新屋敷西城(医王寺)B鳥栖町(成道寺)C桜大地掛北城(桜小東へ150b)
D桜中村城(東宝寺東200b)E戸部一色城(本笠寺駅北150b)F戸部城
(岡田病院)G市場城(七所神社東200b)H寺部城(七所神社北100b)
I星崎城(笠寺小)である。カッコ内は現在地 (池田陸介・郷土史家)
旧知我麻神社の跡地に祭られた社
(本星崎町:星宮神社内)
笠寺台地の南、天白川左岸にあり、本土・本国という意味がある。千竈の上・
下知我麻神社があった所で、祭神は尾張連(むらじ)十一代目乎止与命(おとよ
のみこと)・その妻真敷刀俾(ましきとべ)。尾張国に関係深い土地であったよ
うだ。現在は両社とも熱田神宮に移されている。
本地は鎌倉時代笠寺観音の文書に、はじめて出てくる。また江戸時代の村絵図
から明治十一年まで、本地村とある。戦国時代の星崎城(現笠寺小学校)も、本
地村にあった。
現大江川緑地公園東づまりは、江戸時代は港として栄えた所。現在国道一号線
沿いに、本地通りがある。(池田陸介・郷土史家) ------------------------------------------------------------------------------
編者注) 星宮神社の創建は、舒明天皇(629〜641年)の頃で飛鳥時代初期であり,こ
の地域では最も古い神社に属する。祭神は天津甕星(あまつみかぼし)で衆生を救
う妙見菩薩の仮の姿とも諏訪大社の祭神の建御名方神と言われている。
また,知我麻神社の乎止与命は、景行天皇(104〜123年)のとき,大和国高尾張
邑(奈良県)から来て,尾張の国を造った人である。
よびつぎの浜は南北朝時代の歌「鳴海潟夕浪千鳥たちかへり 友よびつぎの浜
に啼くなり」に出てくる。
なお鎌倉時代の笠覆寺文書にも「呼続の浦」とあるので、よびつぎの浜は古く
からの呼び名であったようだ。また室町時代の完祇の紀行文に「よびつぎの浜に
は、海士の家居あり、塩屋かづかづ見えたり」ともあり、南区が中世から塩田地
帯であったことを思わせる。
江戸時代には呼続村はなく、明治二十二年豊田村と千竈村に統合された山崎・
桜・新屋敷・戸部村を合わせ呼続が誕生した。地形的には山崎川を挾んで瑞穂台
地と笠寺台地の間の低地を呼続の浜と呼んでいる。現在の呼続町は山崎川から本
笠寺駅付近までである。(池田陸介・郷土史家)
喚続神社

天白川下流右岸にある。笠寺台地の南部にひらかれた村として名付けられた。
江戸時代から明治十一年まで南野村とある。村内の阿弥陀堂・神明天王社は、太
閤検地(1590年頃)前免租地とあるので古い。氏神は喚続神社で、社宝とし
て日本最古の隕石がある(現在は東京・国立科学博物館にある)。
中世以降の塩田地帯の南野製塩遺跡が南野町一・三丁目にみられる。江戸時代
初め塩屋二十七・塩田二十二町歩余(約二十二f)とあったが後期塩浜はなくな
る。
その後、塩浜から海側にかけ八左衛門新田・繰出新田・大江新田が開築された
。現在この地に名四国道(国道23号線)が通り、東から三井東圧の化学工場・大同特殊鋼・大同工業大学・名鉄常滑本線・名古屋臨海鉄道がみられる。(池田陸介・郷土史家)