世界で最初の「鉄の橋」建造の歴史


 

 

 

アブラハム・ダービーT世による製鉄


1678年 アブラハム・ダービーT世は、ジョン・ダービーの子としてウォーセスターシャーのダトレイのそばの農場で生まれた。ダービーTが世誕生(1678〜1717没)した。

 彼は、21歳になって結婚して、ブリストルに定住した。
 彼は、クエーカー教徒であり、三人の信徒とともに(Baptist Mills)水車建造のための工場をこのブリストルに設立した。


1704年 ダービーT世は、オランダに旅行に出かけたときに、オランダ人の金属鋳造師を数人雇いイギリスに連れ戻り金属鋳造工場をブリストルに建設した。


1707年 この年の4月18日に、ダービーT世は、湿った砂を鋳造用の鋳型として使う生砂鋳造法を発明した。

これ以前は、青銅鋳物から受け継がれていた鋳造法が、主として使われていた。

 青銅の鋳造には、製作品の価格が材料よりはるかに高く、密閉鋳型の製作の伝統的な方法のローム鋳型(長所:モデルを要しないこと、細かいロームを使うことで砂でやるより仕上がりがきれいで滑らかである点、乾燥したローム鋳型で鋳造した鋳物は、湿った砂でやるよりも硬くて強かった)が使われていた。

 しかし、鉄の鋳造の場合には、製品の値段が安価で大量に造ることが基準となる。そのためローム鋳型による鋳造法は、発展の妨げとなっていた。


1708年 ダービーは、特許とって工場の拡張を企てたが、不安がったパートナーたちはこれに耳をかさず、資金を出すことを拒否した。

自分の発明した鋳造技術を大規模にするためダービーT世は、ブリストルを離れてコールブルックデールに(自分の家族と心を許し合った助手のジョン・トーマスと)移った。

 この後、コールブルックデールは、1世紀にわたってイギリスの製鉄の歴史上で最も重要な場所となり、製鉄技術における多くの重要な改良(生産規模の拡大)が生まれる地区になった。

ダービーT世が来る以前からすでにコールブルックデール地区には、製鉄所があった。 

以前、フォクスという人がコールブルックデールで大砲の砲弾と手榴弾を鋳造して、政府に納めていた。
ところが、爆発事故が起きて高炉が破壊してしまった。その後に、ビヨートル大帝とともにロシアに行ってしまった。

 コールブルックデール工場は、有利な土地で、木材は豊富で、鉄鉱石と石灰石はすぐ近くにあった。

 ダービーT世は、ここに高炉を建設し鋳造場を設け、そこで作られた鋳造品はただちに名声を得ることになった。
 最初の数年は、木炭の不足はなかったが、工場の拡張とともに不足しはじめ、木炭の価値が高騰したことから彼の工場の近くにある石炭を利用しようと思いたった。


1709年 彼の製鉄所で木炭の代わりにコークスを用いて鉄を製造することに初めて成功した。しかし、実用的ではなく量産できなかった。

ダービーU世による近代製鉄法への道


1711年 3月12日 アブラハム・ダービーU世が誕生 (1771〜1763没)した。


1713年 ダービーT世は、石炭をコークスにして、コークスを良質の木炭に配合して使用、後に粉コークスと泥炭だけを添加し、配合使用という形で石炭を高炉に使用することに成功していた。このとき、コールブルックデール製鉄所は鋳物を週に5t〜10t、高炉から直接鋳造して製作していた。


1717年 3月8日 アブラハム・ダービーT世が死去(1678〜1717)した。

ダービーT世死後、ダービーU世がまだ6歳だったので親類のリチャード・フォードが経営を引き継いだ。


1720年 ニュウーコメン式蒸気エンジンの製鉄のシリンダーがコールブルックデールにおいて製造されていた。


1730年 この頃になると、やっと19歳に達した長男のダービーU世が事業に加わった。彼は、精力的に働き、事業を高揚させた。


1735年 ダービーU世は、ダービーT世による製鉄燃料に石炭を利用した試みを再び取り上げ、鉄鉱石をコークスだけで高炉において精錬することに成功した。そして、実用的になり量産できるようになった。

 しかし、当時はコークスを木炭に混合して使用することの方が多かったようであった。


1743年 ニューコメン式蒸気エンジンが製鉄のために導入された。コールブルックデールの貯水池の間の水を循環させるのに用いられた。

 

ダービーV世とアイアンブリッジの建設


1750年 アブラハム・ダービーV世が誕生(1750〜1789没)した。


1755年 ダービーU世は、競争力のあるコークスを用いた製鉄を本格的に開始した。

 この年、初めての鉄の橋の計画がリヨン(フランス)であったが、実際には建築されなかった。


1759年 この年までには、コールブルックデール地区の高炉が、この5年間に四基から十三基に拡張。週平均20t以上が生産された。


1763年 アブラハム・ダービーU世が死去(1711〜1763)した。

コールブルックデール製鉄所は、ダービーV世が成人するまでリチャード・レイノルズ(義兄)が管理した。

 


 

アイアンブリッジの計画案


1773年 最初の鉄の橋アイアンブリッジの計画案が、シュルースベリーの建築家トーマス・ファーノルズ・プリチャードが製鉄所を経営しているジョン・ウイルキンソン(彼は、翌年工作機械スチームエンジン用のシリンダー加工のための中ぐり旋盤を発明した。)へ宛てられた手紙の中に記されていた。

 

 

 アイアンブリッジの建設には、建築・土木の伝統的な職人(プリチャード)達の技術と製鉄関係者(ダービーV世)達の鉄の鋳造技術、この二つの伝統的な技術が統合された。


1774年 2月にコールブルックデールのセヴァーン河に橋を建設することをブロスレイとマデレイウッドの住民によって地方会議に請願された。

 そして、正式にウェストミンスター(会議)に提出するための費用をまかなうための地方会議が開かれた。

 

 

提出された橋の寸法は当初どおりであった。そして、鉄の橋は従来の工法より耐久性が高く費用が安いというふれ込みがあった。


1775年9月15日 ブロスレイで橋の建設資金の出資者による正式な会議が開かれた。
 アブラハム・ダービーV世の名前は、会議に提出された橋の建設の請願書の筆頭にあり、常に橋の建設に誰よりも深くかかわっていた。

 著名の主な人々・・・・・・・アブラハム・ダービーV世   ジョン・ウィルキンソン   レオナルド・ジェニングス   エドワード・ブレイクウェイ   ジョン・ワイク   ウィリアム・ゴッドウィン ・・・etc。

 しかし、ダービーV世はまだ若く、アイアンブリッジのプロジェクトに関して製鉄所のパートナー達からほとんど支持を受けてない。

10月17日 トーマス・ファーノルズ・プリチャードのアイアンブリッジの計画図と見積書が出資者に提示された。そして、アブラハム・ダービーV世は橋の建設の委託を受けた。
 また、会議に提出する橋の建設の法案に記入する出資者の名前の長いリストが作成された。

 トーマス・ファーノルズ・プリチャードのスパン120フィートの鋳鉄の橋の最初の設計図は、50年保管され、ジョン・ホワイトによって出版された(1830年)。
 実際は、この設計図では建設されなかった。

 プリチャードとダービーV世は、橋の総工費を3200ポンドと見積もり(300tの鋳鉄と錬鉄の材料費は、2100ポンド。化粧石の材料費は、500ポンド以上。また、ポンプ作業・足場作業・輸送費に200ポンド。調査と作図費に120ポンド。道路材料費に50ポンド。そして新設道路に200ポンド)としている。
 しかし、後にアイアンブリッジの建設は常に資金不足に悩まされ続けることになる。

 


1776年 2月 出資者の事務方を務めていたトーマス・アデンブルックはロンドンへ行き、会議向けの請願書作成とそれに続く法案の下院通過を確認するために3週間滞在し、ジョン・ハリスを弁護士として雇用(総額100ポンド)した。

 2月5日に、アイアンブリッジ建設の請願は、チャールズ・バルドウィン議員によって提出された。

 当時の首相のノースと下院議長は、このアイアンブリッジのプロジェクトに非常な興味を示し、橋の設計図を会議へ提出するよう求めた。
 プリチャードの設計図は、議会へ提出され満足される結果を得た。

 2月19日 アデンブルックとジョン・ハリスの法案の草稿が、チャールズ・バルドウィン議員によって提出されたことによって、ただちに第一読会(リーディング:議案の審議)にかけられた。

 2月27日 第二読会では、委員会の段階で多少の修正が加えられた。

 3月8日 第三読会にかけられた。上院に提出され何ら修正されずすみやかに上院を通過した。

 3月25日に勅裁(国王の裁可)を受け法令として成立した。この後、ダービーV世は、18ヵ月間に渡って橋のプロジェクトをどのように進めるか方針が定まらず苦悩することになった。

 5月15日 委託者の会議では、ダービーV世がこの橋の設計の責任者に任命されたことが取り消され、120フィートの単スパンの石造または、木造のアーチの設計を募集することが決められたが、後の会議で満足のいく案が得られず、結局プリチャードの設計で進められることになった。

 

 7月24日に、プリチャードは、ダービーV世からアイアンブリッジの模型を作るように指示を受けた。


 この年の(1776年)夏には、出資者のアブラハム・ダービーV世らの橋を鉄で建設することを支持する人たちとこのプロジェクトにオーソドックスな工法を望む保守的な人たちの間で、分裂が起こってしまった。
また、その間ダービーV世はいくつかの高炉を買収し、工場の生産力を高めている。

 10月1日 レオナルド・ジェニングスとジョン・ウィルキンソンは、橋を2年後(1778)のクリスマスまでに完成させることを条件にアブラハム・ダービーV世に株を譲渡した。

 10月18日 出資者の会議では、再び橋は鋳鉄で1778年のクリスマスまでにダービーV世が責任を持って完成させることが確認された。
 しかし、7人の出資者(エドワード・ハリス師,リチャード・ハリス,チャールズ・ゲスト,ジョン・ハートショーン,ローデン,ジョン・モリス,ジョン・サースフィールド)は、3000ギニー(1ギニー:21/20ポンド)以下に収まらなければ、橋を鉄で建設するのに反対すると主張した。

 アブラハム・ダービーV世は、この7人に対して当初同意した一株あたり50ポンドを超える追加の出資要請はしないことを約束した。
 ダービーV世は、1778年のクリスマスよりも遅れた場合、出資者には橋の通行料金の代わりに持ち株に応じて5%の利子の支払いを保証した。この時点で、ダービーV世37株、支持者5株。反対者は、10株にすぎなかった。

1776年から1777年にかけての冬の間には、アイアンブリッジの建設に関して何らの進展もなかった。この原因は、10月の合意に対してまだ反対の尾を引いていたことと、このプロジェクトは株を保持する出資者の合意によって進めるというシステムのため、この段階で出資金を消費してはいけないと解釈されていた。


 1777年 3月31日 出資者は、成立した法令の解釈と株の配当方法についてクレオベリーのの弁護士トーマス・ミットンに意見を求めた。

 ミットンの考えは、出資者への持ち株に応じた還元は橋の通行料金、そして法令によるその他の収入に基づく通常の配当金による以外の方法では何ら保証されるものではない。
 また、10月の決定は、取り消されるべきことと新たに持ち株数の割り当てを決め直すことを助言し、出資者もこれを受け入れることを同意した。

 このことによって、総株数(1777年の10月20日に変更した)は、64株となった。

 鉄の使用に反対していた七人の出資者は持ち株の一株あたり2ポンド10シリング(1シリング:1/20ポンド)ずつさらに出資することに合意した。
 アブラハム・ダービーV世と支持者そして新たな出資者は、一株あたり5ポンドを支払うことになった。

 ダービーV世は、依然として橋とその取り付け道路を1778年のクリスマスまでに完成すること、そして、もし完成できなかったら、投資額に応じて5%の利子を支払うという約束を引き受けていた。
 これ以後、少なくともプロジェクトの法律的、財政的な面の問題はなくなり、設計や施工の計画といった実務的な問題に取り組むことが可能となった。


 7月までに設計は、変更が加えられスパンが120フィートから90フィートに短縮され、その後また100フィート60インチに伸ばされた。
 そして、承認を受け実際に建設された設計案となった。

 10月20日には、新システムによって総株数は64株となった。アブラハム・ダービーV世15株、弟サミュエル4株、ジョン・ウィルキンソン12株、レオナルド・ジェニングス2株、エドワード・ハリス師2株、トーマス・ファーノルズ・プリチャード2株、エドワード・ブレイクウェイ2株、チャールズ・ゲスト2株、ジョン・モリス2株、それ以外は1株ずつになった。


1777年11月 アイアンブリッジの建設工事が開始された。
 最初の仕事は、橋の建設のための整地作業であったため、翌年の1月末までは、3,4人の作業者が雇用されていたにすぎなかった。

最も信頼できるアイアンブリッジの建設の資料は、現存するアブラハム・ダービーV世の会計簿からわかる。

 12月21日 トーマス・ファーノルズ・プリチャードが死去(1723〜1777)した。


1778年 石積みの橋台が建設され、橋の部材が鋳造されて架設が行われた。最も見ごたえのあったと思われる建設段階は、橋の主要部材のアーチリブの架設であったが、これは、比較的短期間で行われている。
 建設最終段階の橋と道路との連絡で、最も時間を費やすことになった

3月〜4月は、雇用作業者数は、急激に増加した。

4月〜5月は、この橋の工事期間全般を通じて最も多く、おそらく40人ほどの作業者が雇用されていた。

 また、春から夏にかけて巨大な石積みの橋台(この付近の石切り場から採石された石を使い)のほとんどの部分が建設された。

夏の祭り時期をのぞいて建設工事には、20人を越える作業者が雇用されていた。この間アーロン・シンプソンという会社だけが入っていた。
 この時期の工事は、チャールズ・ホーンブロワーによって指揮されていた(10月初めまで)。


 セヴァーン河の両岸で橋台が建設されている時、コールブルックデール製鉄所では、橋のアーチリブが鋳造されていた。

 D・J・パーリーは、橋の部材としては30種類の形状の部材を鋳造する必要があると見積もった。

 フィリップスは、378.75tの鉄が使われる必要があると考えていた。
 大量の鉄の生産と今までになかったいろいろな形状の鋳鉄リブのアーチの鋳込みによって、工場は、量、質ともに高度な操業が要求された。

 1770年代の記録は残っていないが、1788年の高炉の生産量はダービーU世の時から変わらず、週20tであった。1790年代には、例外的にホースヘイの高炉で週30t生産された。

 このことから単純に見積もっても、アイアンブリッジの部材の鋳造に必要な鉄を得るためには、この時期の比較的規模の大きい高炉を3ヶ月以上も必要とすることになる。

 また、橋の部材が生産されている間の日用品やスチームエンジンの部品、その他の鉄の需要が、重大な影響を受けないようにすることは重要なことであった。したがって、コールブルックデールにおいてアイアンブリッジのために高炉を拡張することが必要であった。

 10月初めにチャールズ・ホーンブロワーからジョージ・パーカーへ指揮が交替(1778〜1780初めまで)した。

 10月23日 橋台の完成を祝うために総額9ギニー(1ギニー:21/20ポンド)のエール(ビール類)を購入し、支払いがされた。


 1778年 この年に、巨大なアーチリブが コールブルックデールで鋳造されたことは疑う余地はないが、コールブルックデール製鉄所で鋳造されたという資料は、残っていない。

 製鉄関係者によってしばしば言われてきたことだが、もろくて重く、そして、運搬に不都合な形状をしたアーチリブをコールブルックデール製鉄所から現場まで1マイル以上も運搬する困難さを考えると現場の河のそばで反射炉を作って鋳造することの方が、最良の方法であったという意見がある。


12月から1779年1月の冬の間 アイアンブリッジの建設のために雇用作業者(ある週には、10人以下)の数は急激に減っている。

3月 18ポンド以上のロープがリチャード・クラークという人から購入し、建設終了後さらに47ポンド支払われた。

4月 雇用者の数は、さらに増え25〜30人の作業者が雇用されていた(4月〜12月まで)。雇用の出資は平均して30ポンドを優に越えていた。

 大量の木材が現場に搬入された。最大の物は、83ポンド近くがハーフォード・リング会社から、55ポンド以上の樅の木がウィリアム・ゴッドウィンから、そして、13ポンド相当の木材がジョン・インデンスから購入されている。

 また、トーマス・サットン所有の小舟が借入され一群の馬が準備された。


 7月 橋の架設の順序は、最初に両岸の橋台にベースプレートがおかれて、この上にそれぞれ二組の鉛直部材と綾講が組み立てられた。そして、五本のアーチリブが吊り上げられて所定の位置に組み込まれ、それぞれの中央でアーチリブが結合された。

 次に短いアーチリブが架設され、メインのアーチリブと五本の放射状の部材によって固定され、さらに橋台の鉛直部材にあり継ぎ(木工の継手)で結合された。

 その後は、最上段の最も短いアーチリブが架設され、鉛直部材にはめ込まれて中断のアーチリブの三本の放射状の部材によって固定される。

 そして、次に二組の鉛直部材の間に装飾のS字型の部材の鉛直部材と上段のアーチリブの間に円形部材がはめ込まれた。

 このアーチリブの吊り上げに馬が用いられたと思われる。部材の組立の順序は模型によってあらかじめリハーサルされている。

 すべての主要部材は、三ヶ月の間に架設され、この間に、作業者の重大な事故もなくセヴァーン河の水上交通にも支障は与えていない。


 8月中旬に、主要部材の架設作業の完了した。そして、エール(6ポンド近く購入された)で乾杯された。

 また、この時期までには、他の主要工事であるマデレイターンパイクと結ぶ取り付け道路の建設が、進められた(責任者は、リチャード・フォード)。

残りの部材は、6〜7週間の間に架設された。

 9月には、出資者からプリチャードの弟に対して、図面及び模型の製作として、40ポンド近くの金が支払われている。

 11月下旬 アブラハム・ダービーV世の会計簿から足場は、ジョブ・ゴッホによって取り除かれた。

 この年(1779年)ついにアイアンブリッジが完成した。

 しかし、橋の橋面工は完了せずに作業がのこされ、まだ開通されていなかった。

 アイアンブリッジは、全長:50m高さ:20m成分は(C:3.25,Si:1.48,Mn:1.05,P:0.54,S:0.037%)、ねずみ鋳鉄組織である。

 1779年の冬 予定されていたとおりこの間作業者の雇用の数は低下した。


 1780年 この年の初め、アイアンブリッジの仕事はジョージ・パーカーからトーマス・グレゴリーへ引き継がれた。
彼は、ダービーV世の工場の鋳型の製造の職工長で、ダービーV世の指導のもと橋の最終の設計図を書いた人である。1785年には、アイアンブリッジの木製の模型を作った。

1780年は、どのような作業が行われたかについての詳細な資料は残されていない。

 4月〜5月 以前からダービーV世の石工として働いていたジェームス・デーグは、130ポンド以上の支払いを受けている。
このほかデニス・エドソンは60ポンド以上、そして、エドワード・バートレッドは30ポンド以上の支払いを受けた。


1781年 1月1日 アイアンブリッジが開通した。

この橋の路面は、粘土と高炉のスラグによって作られていた。

しかし、この時点では、依然として「ほぼ完成」の状態であった。

 完成させるために必要のある重要工事としては、マデレイターンパイクまで結ぶ新道の建設があった。また、橋台の基礎の洗掘防護用の保護壁の建設が残されていた。

 また、ダニエル・ローズという人へトーマス・グレゴリーからアイアンブリッジのプロジェクトに関する責任が、引き継がれた。


 1782年 3月14日 コールブルックデールを訪れたワーウィックシャーの旅行日誌には、アイアンブリッジの費用は、5000ギニー(5250ポンド)とされている。しかし、実際のコストは、わからない。


 1784年 郡当局は、橋の建設費を6000ポンドで打ち切ることを建設当事者のダービーV世に認めさせた。


 1785年 トーマス・グレゴリーによって、アイアンブリッジの模型が作られた。


 1786年  ダービーV世は、1ギニーを支払ってロンドンで展示室を借りて、トーマス・グレゴリーの模型を展示した。


 1789年 アブラハム・ダービーV世が死去した。その後、コールブルックデール製鉄所は、一時的に衰退した。


 1790年以降 工場に鉄製の機械類の使用が増加した。機械類は、鉄製の水車や鋳鉄のシリンダー、梁、ポンプ、そして錬鉄のロッドに連結され、錬鉄のボイラーから供給されるスチームエンジンによって駆動されていた。


 1795年  2月 セヴァーン河の大洪水が起きてこの河に架かるほとんどの橋は破壊されてしまったが、アイアンブリッジだけは、巨大な水圧にも耐え、全く変状はなかった。

 1934年 アイアンブリッジは、国の記念物に指定された。
 また、車両の通行が禁止にされた。しかし、通行料は、そのまま1950年まで続けられた。

 1979年 アイアンブリッジの大規模な改修工事が行われた。

 1986年 アイアンブリッジ峡谷一帯が、世界遺産に登録された。

 

 

 

         

 


『世界遺産』【アイアンブリッジ】TBS系テレビ:97年3月放送

 UNITED KINGDOM
 産業革命それは人類の歴史にとって、道具の時代から機械の時代に移り変わる出来事でした。この原動力となった場所こそ、アイアンブリッジ峡谷だったのです。
 THE MOST EXTRAORDINARY DISTRICT IN THE WORLD  
 The Iron Bridge Gorge in Shropshire
 ロンドンの北西190qにあるシロップシャー地方のアイアンブリッジ峡谷。かつて、ビクトリア女王は、この谷を世界で最も驚くべき場所と呼びました。
 産業革命がもたらした大栄帝国栄光の時代、ここは最先端の技術を誇る工業地域だったのです。
 そうした時代の輝かしきシンボルそれこそが、アイアンブリッジです。「アイアンブリッジ」そんな名前で呼ばれるのも、これが世界初の鉄の橋だったからです。
 それまでは、この峡谷には橋がありませんでした。人は、渡し船またはコラクルと呼ばれる小舟でわたったのです。
 セヴァン川の水運に恵まれ、また石炭や鉄鉱石を豊富に埋蔵するこの地方は、元々産業のための優れた立地条件を備えていました。
しかし、ここは産業革命発祥の地と呼ばれるためにはそれだけでは十分ではありませんでした。

 1708年秋、峡谷の小さな村、コールブルックデールの小さな製鉄所に一人の男が訪れました。古い溶鉱炉を貸してほしいと言うのです。
 その男の名は、アブラハム・ダービーその数ヶ月後に彼の開発した新たな技術は、世界の鉄の製造に革命を起こすことになるのです。

 彼が生まれたのは1678年、そして彼の父親は、錠前職人でした。蒸気機関のワットを始め産業革命の引き金となった新技術は貴族や知識人ではなく徒弟教育の職人たちの間から生まれたのです。
 コールブルックデールには、ダービーが最初に借り受けた溶鉱炉の跡が保存されています。コールブルックデール一帯では16世紀はじめから、製鉄業が栄えていたがダービーが訪れたときには、すっかり衰退し、溶鉱炉も操業停止の状態でした。木炭の不足が溶鉱炉の火を消したのです。
当時の溶鉱炉では、送風機を動かす水車の水、そして鉄鉱石を還元する燃料となる木炭が必要不可欠でした。鉄と引き替えにイギリスから次々と森が消えていきました。しかし、木炭の需要はそれをさらに上回ったのです。そうした慢性的な木炭の不足に対処する必要がアブラハム・ダービーの発明の母となりました。彼は、木炭に変え鉄の精錬にコークスを用いる技術を開発し、製鉄業に革命をもたらしたのです。
 さらに、彼の息子アブラハムU世の代に、溶鉱炉の送風システムに蒸気機関が導入されると鉄の生産量は、飛躍的に増大しました。

 18世紀後半、この地方の鉄の生産量は、イギリス全体の実に4割を占めるまでになったのです。鉄の増産は、産業革命をさらに押し進め炎を吹き上げる溶鉱炉からは、蒸気機関を始め数多くの産業機械が次々と生み出されました。アイアンブリッジ峡谷は、文字道り産業革命誕生の地となったのです。

 世界最初の鉄橋、アイアンブリッジの建設計画が始まったのは、1775年のことでした。当時絶頂期にあったコールブルックデール製鉄所の技術力を、広く世界に示す夢の橋でもありました。
 そして、4年後夢は実現したのです。全長30m高さ12m。建設の指揮をとったのは、アブラハム(T世)の孫アブラハムV世でした。
 アイアンブリッジは、従来の石造りのアーチ橋からその形を借りています。鉄という新たな材料にふさわしい橋の形態がまだ開発されていなかったのです。
 アイアンブリッジの建設は、1本のボルトも使わずに行われました。アーチのジョイント部分には、くさびなどの木工の技術が応用されています。この橋の完成を一つの景気に橋は、鉄の時代を迎えます。アイアンブリッジは土木の未来の架ける橋となったのです。
 世界初の鉄の橋の評判は、ヨーロッパ中に伝えられ首都ロンドンからの駅馬車は多くの見学者をアイアンブリッジへと運びました。その一方で計画を大幅に上回った橋の建設費は、アブラハムV世に莫大な負債としてのしかかったのです。

 1781年、開通と同時に橋のたもとには料金所がもうけられ橋を渡るものはたとえ軍人や大族であろうと等しく通行量は徴収されました。ここには、アブラハムV世の自由主義的な思想を持つクエイカー教徒としての片鱗が伺えます。
 産業革命をもたらした技術の進歩は、ばく進する機関車のようにとどまるところを知りませんでした。
 イギリスは、新しい時代へ先頭を切って進んだのです。その原動力となったアイアンブリッジ峡谷は、休むことなく大量の鉄を生み出し続けました。
 主要な蒸気機関や次々と建設される鉄橋には、いつもダービー家のコールブルックデールカンパニーの名前がありました。


 CAST AND BRECTED BY THE COALBROOKDALE COMPANY
 アイアンブリッジ峡谷で作られる鉄製品は、建物の屋根や農耕機具から家庭用の鍋まで、ありとあらゆる分野にわたっていました。

 1815年ナポレオン戦争終結とともにイギリスの製鉄業全体を不況が襲いました。その数年後には、コールブルックデールの溶鉱炉は操業停止へと追い込まれました。
 カンパニーの存続をかけて再建のための道が模索されました。そうして生み出されたものが、数々の技術的な鋳物製品です。
 コールブルックデールは再び活気を取り戻しました。
 その最大の立て役者は、アブラハムV世の子フランシス・ダービーでした。

 1986年世界遺産に、アイアンブリッジ峡谷一帯は登録されました。


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